憤怒を越えて幸福の起源を求める
切り絵アーティストとなる以前の楊士毅は、プランナーであり、カメラマン、映画監督だった。台南崑山科技大学視覚伝達学科から台湾芸術大学の大学院に進学した楊士毅は、学生時代から頭角を現してきた。27歳までに各種の賞を受賞してきたが、「どんな賞を受賞しても、自分を評価することができませんでした」と語る。
幼少期に両親と離れ、不安定な幼少期を送った彼は、不安と憤怒に囚われていて、決まった基準のない創作の世界に逃げ場を求めた。
自分には芸術的才能はなく、絵も描けないと自分を評価し、創作のハードルが低い写真撮影を専攻した。当時の自身の心境と迷いを映すかのように、その写真作品は晦渋で疎外感に溢れていたのである。
その後、偶然に漢声出版社の切り絵叢書に入っていたシンプルで色彩豊かな作品に強く惹きつけられた。心躍らせる作品を見て「この作者はきっと幸福な環境に育ったので、これほど豊かな創作エネルギーを持っているのだろう」と考え、創作の秘密を知りたくなった。
楊士毅は作者を訪ねようと、雲門舞集の「流浪者プロジェクト」に応募し、陝西省まで出かけて行った。ところが陝西省に着くと、驚きに立ち止まってしまった。その切り絵作品は、「剪花娘子(切り絵お母さん)」と呼ばれた庫淑蘭の手になるものであった。
総白髪の彼女は、陝西省の黄土高原にある質素な家に住んでいた。壁には黄ばんだ新聞紙を貼りつけ、木を組み合せただけのベッドに、傍らの平たい石が切り絵の構想を練る場であった。
その生活は決して豊かとはいえず、それまでの生涯は苦難の連続だった。農村の生活は貧しく、彼女はわずか4歳で他家に将来の嫁として幼女に出された。17歳で結婚しても、愛のない結婚生活は苦労続きだった。そんな生活の中でも、作品に現れる歓喜や楽しさを磨り減らすことはなかった。楽しく踊る人びとの表情、鮮やかな色彩が作品に満ちている。
「私に比べると、もっと人生を諦めてもいいような境遇なのに、なぜだろう。この世界は彼女には美しく見えるので、あのような鮮やかな作品が作れるのだろうか」と自問した。
3カ月余りの日程を終え、落ち着きを取り戻したものの、作品を作ることはなかった。
その後の7年は、台南の母校に戻って教壇に立ちながら静かに自分を見つめる生活を続けた。作品を作らない日々が続く中、交際相手の女性から頼まれて、ようやく鋏を取り上げ、喜の文字をコンセプトに最初の作品を切り始めた。
作品を7点作っただけで、企業スポンサーが付き始め、切り絵工房を開設し、台南のホテル・ロイヤルや台新銀行など各方面からの注文が続き、2017年の台北ランタンフェスティバルへと続く。切り絵を始めてわずかに3年余りだが、作品はすでに数十点に及んでいる。