陳薏婷——チャンスを逃すな
陳薏婷は林昊星の同級生で、勉強でも良きライバルだった。博幼埔里センターで学んでいた頃、明るい彼女はクラスのムードメーカーで、先生のところに質問に行くのが好きな、数少ない生徒の一人だった。博幼で受けた教育はとても大切で、今でも当時のことをよく覚えている。
「また陳薏婷か! 声が大きいぞ」指導担当の呉文炎先生は毎日廊下を巡回し、生徒がおとなしくしているか見ていた。いつも厳しい顔をしているが、陳薏婷は父のように慕っていた。呉先生は生徒それぞれのことを覚えていて必ず声をかけてくれたし、仕事が終われば、おしゃべりのできる友のような関係になれた。博幼を離れて長年になるが陳薏婷は先生のことをよく思い出す。「先日、博幼に行った時にはサインしてもらいました」先生が『尋味:你没有走過的社工路(探す:あなたの知らないソーシャルワークの道)』と『解鎖:我的火火社工路(解く:私の熱いソーシャルワークの道)』という本を出したと知り、うれしくて本にサインをしてもらったのだ。
博幼にはさまざまな先生がいて、異なる影響を受けた。ある英語の先生はバンドをやっていて、もじゃもじゃ頭、授業で語る人生訓は、教える単語の数より多い感じだった。「遊んでもいいけど元手がなきゃダメだ。遊べて勉強もできる。俺のようにな」という言葉が印象に残り、彼女は精一杯遊んで精一杯勉強した。
中学卒業後、陳薏婷は暨南国際大学付属高校に入ったが、普通高校の授業に満足できなかった。もっと実際に使える知識や技術を学びたいと思い、高級職業学校商業管理学科で学んだ。後にドリンク店で働いた時も経営学の知識を生かして経営状況を分析し、20歳で店長になった。
家から逃げ出すような形で桃園へ出て働いて5年、祖母が病に倒れたと知らせを受け、すぐに異動を願い出て家に戻った。
「おばあちゃんは家族5人を支える柱でした。字が読めず、力仕事で家族を養ってくれました。家族みなが言い争っていても、おばあちゃんだけは静かでした」ほかの家族はすでに亡くなったり他所で働いていたりして、今は広い家に祖母と孫の二人だけだ。だが家の中はいつも陳薏婷の笑い声と、孫を気遣う祖母の声で満ちている。
「数多くの親切な人に出会ってきました。もしあの人たちがいなければ、今ごろ私はどこにいたか」と陳薏婷は博幼の先生やバイト先の店主、今の職場の上司に感謝する。人生の経験を語ってくれ、前進する力を与えてくれた。店長となり、経営の大変さをより理解できるようになった今は李家同校長をより尊敬する。十数年間、博幼を経営し、授業料の払えない生徒にも手を差し伸べてくれ、違う世界に進む機会を与えてくれた。
そんな陳薏婷は博幼の後輩を励ます。「人でも本でも必ず何か学べることがあるので、いま与えられたものをしっかり掴むこと」と。
山深い南投県信義郷にある羅娜課補教室。平日、教師は車でここに通い、生徒たちの復習を見たり、質問に答えたりしている。