装飾タイルを救え
しかし、いいことは長くは続かない。都市の再開発と古い建物の改修が進み、装飾タイルをあしらった台湾の古い家屋は次々と取り壊されていった。康锘錫の案内で台北をあちこち回ったが、装飾タイルの建築がようやく数軒見られただけだった。内湖の郭子儀紀念堂は2階建ての洋式レンガ造りである。建物の正面に12枚の装飾タイルが貼られている。木々に埋もれた蘆洲の邸は、正面一面に装飾タイルが対称に貼られている。北投の中和禅寺の霊光塔には、精巧に彫刻が施された孔雀と龍のタイルが一対貼られている。どれも珍しいものである。
装飾タイルの建物が点在するだけの台北に比べて、最もよく保存されているのが金門である。康锘錫によると、金門は軍事上の理由で長年にわたって建設が禁止されてきたため、四十年以上にわたり装飾タイルの古民家がほぼそのまま保存されている地域だという。
記録するだけにとどまらず、愚直なまでの情熱で、解体現場へ乗り込んで家主と掛け合い、棟や壁の装飾タイルをもらい受けるグループがいる。徐嘉彬もその一人である。学生時代から装飾タイルの古民家をめぐってきた。当時は古民家の梁や棟の彫刻や絵画が重視される一方、タイルの貴重さを理解する人はいなかった。
当初は解体現場で状態のよいタイルを拾うだけだったが、仲間がそれぞれ経済力を持つようになると、解体業者と連絡をとるようになった。装飾タイルの家が壊されるという知らせを受けると急いで家主と話し合い、同意が得られれば、ショベルカーが入る前に、クレーンを動員してタイルのついたブロックごと取って保存する。一回の費用は十万元近い。いつも志を同じくする仲間が出し合って負担している。
徐嘉彬は高雄の古民家での経験を振り返る。解体前夜になって知らせを受けて徹夜で南下したが、使える機械がなかった。しかたなく雨の中、三合院の傾斜した屋根に上り、タイルを一枚一枚はがした。救出できたのは二十数枚で、百枚近くが犠牲になった。
はがしたタイルは、その後の整理にも手間ひまかかる。慎重に電ノコでセメントとタイルを分離する。タイルのカビは扱いが難しい。化学薬剤と水に数日浸して、ようやく昔の美しさがよみがえる。薬剤の配合も実験を重ねた。配合比や時間のコントロールが悪いと、薬剤でタイルそのものの色まで褪せてしまう。何年も実験して、なんとか除菌の標準プロセスを打ち立てた。これができるのは台湾では徐嘉彬のグループだけである。
2015年には、徐嘉彬は仲間と共に嘉義市林森西路にあるヒノキの古民家を買い取った。改修してここを「台湾タイル博物館」として、長年集めたタイルを展示し、台湾にかつてあった美を人々に見せている。
日本ではイギリスのヴィクトリアン・タイルの模倣に始まって、後に独自のデザインを生産するようになった。華人市場へ輸出するものは果物や動物、例えばリンゴ(平安)、桃(長寿)、ザクロ(多産)、魚、麒麟、鵲といった吉祥の図案を、インド向けなら孔雀やガネーシャ(象神)などといった柄のものを製造した。