劇のワンシーンさながらに
教師やグラフィックデザインの仕事もした黄鴎波は、画才だけでなく文才もあった。推挙されて彼が著名な詩社「瀛社」の代表を務めていたことを知る人は少ない。彼が長年にわたって書きためた詩を見ても、彼が書や詩に深い造詣を持っていたことがわかる。しかも劇の脚本も書いている。ユーモラスな台湾語劇『秦少爺選妻(秦若旦那の妻選び)』は彼による創作だ。その登場人物が歌う「四句聯(4句で成る韻文)」は、台湾語による押韻の魅力を発揮している。またこれがきっかけでラジオ放送のアナウンサーにもなっており、現代風に言えばまさに「スラッシュワーカー(複数の肩書や仕事を持つ人)」だ。
明るい性格の黄鴎波は、画家、詩人、教師、脚本家であり、そして「社会観察家」だった。彼の作品にはよく、世俗を戒めるような意味合いが感じられる。それは彼が知識階級としての社会的責任を感じていたためだろうと、黄冬富は言う。激動の時代に生まれながらも、常に社会に希望を持ち続け、積極的に社会に関わる。彼は絵画に幾千の言葉を託したのだ。
例えば、作品「今之孟母」は、屋台で果物や菓子を売る母親のそばに、伝統の股割れパンツをはいた子供がいる絵だ。題字には「夫為斯文誤,慎防子亦然。択居攤販市,教学売香煙(そもそも学問などは誤りで、子にはさせない方が良い。居を市場に構えれば、煙草を売ることを学ぶ)」と書かれている。黄鴎波は「孟母三遷」の故事を借り、かつて孟母は良い学習環境を子に与えようと繰り返し住まいを移したが、もはや学問では食べていけないので商売を学ばせるという、当時の社会の風潮を映し出した。
1949年に第4回省展で受賞した「地下銭荘」も、風俗を描きながら社会状況と呼応させた。絵に描かれるのは、纏足をした女性が、地下に眠る祖先や死者のための 「紙銭」を屋台に並べて売る風景だ。風俗を描きながら「地下銭荘(地下銀行)」とたとえることで、金融の混乱や物価の高騰で闇金融が横行した世相を皮肉っている。
ほかにも林柏亭は「まるで劇のひとこまのような作品もある」と、1956年の「勤守崗位(任務を尽くす)」を分析する。この年は珍しい4月の台風が被害をもたらした。黄鴎波は、電信局員が強風の中でも電信柱の上で懸命に修理に当たるプロ意識に感動し、彼らの姿をスケッチした。台風が去ったばかりで、雨は上がったものの、まだ強風の残る様子を、見上げる角度で描いた。捲れ上がる舞台の幕のように風に煽られた布が、労働者らの懸命な作業を感じさせる。「1枚の絵で、動きを表現している」と林柏亭は言う。
作品「迎親(嫁入り)」の前で、黄冬富はこう説明する。これは昔の台湾の嫁入り行列を描いた作品で、人夫が輿や道具を担いで坂を上っていく。前方の質素な輿は仲人用で、装飾の華美な方が新婦の座る輿だろう。黄冬富はこの絵を見ると、幼い頃によく聞いた閩南語歌曲「内山姑娘要出嫁(内山の娘の嫁入り)」を思い出すという。「深い山から嫁入りの輿が出る/太鼓や笛の音高らかに/内山の娘さんが/輿に乗って嫁入りするよ」という歌詞だ。