
「驫」は「飆」と同じ発音で、多数の馬が疾走することを意味する。2004年に陳武康と蘇威嘉とその友人たちがダンスシアターを設立し、「驫舞劇場」と名付けた。若いダンサーたちのみなぎる創作力が火花を散らし、台湾のダンスアートに新たな生命力を注ぎ込んできた。それから十数年、さまざまな創作手法にチャレンジし、国境を越えて異なる文化とのコラボレーションにも取り組む。アメリカ、フランス、香港、イスラエルなどの人材と共同で数々の優れた作品を世に送り出してきたのである。
当初は20代だった若者たちも、今ではさまざまな経験を積んで成熟している。彼らは外へと創作の可能性を探ると同時に、身体表現と伝統文化に対しても、より深い探求を渇望している。そうした中、今年5月に彼らはタイの現代舞踊家であるピチェ・クランチェンと共同で『半身相(Be Half)』を上演した。互いの文化について問いを投げかけ合い、身体表現でそれに答えるという、伝統を探求する芸術の饗宴となった。
「台湾の『身体』とは何か?」これは驫舞劇場のアートディレクター陳武康の問いかけであり、また多くの芸術家の問いでもある。民主的で自由、多様な文化を受け入れる台湾だが、その伝統文化というと曖昧である。多くのエスニックにそれぞれの文化があり、台湾を代表すると言えるものがないのだ。この問いかけに答えは見つからないが、多くの思考を引き出す。こうした中、陳武康は縁あってタイの振付家、ピチェ・クランチェンと出会い、長年にわたって悩んでいた自分自身の文化というものに答えの糸口を見出した。

陳武康(左)、蘇威嘉(右)と仲間たちが設立した驫舞劇場は熱い創作エネルギーにあふれ、台湾の現代舞踊に生命力を注いでいる。(林格立撮影)
台湾とタイ、ともに身体の伝統を考える
2016年、タイの現代舞踊家で振付家のピチェ・クランチェンは、友人の紹介で驫舞劇場を訪れた。タイの古典舞踊Koln(コーン)を研究するピチェがかもし出す物静かで穏やかな雰囲気に陳武康は惹きつけられた。
話をするうちに、二人は互いによく似ていることに気付いた。陳武康は12歳からバレエを学び、23歳でニューヨークのダンスグループに入り、友人たちと驫舞劇場を創設、現代舞踊の可能性を探ってきた。ピチェ・クランチェンは16歳の時にタイのKolnの大家から伝統舞踊を学び、後に渡米。伝統舞踊を基礎に現代舞踊を解釈し、タイ初の現代舞踊団を結成した。
バレエを学んだ陳武康は、かつて自分は金髪の西洋人なのではないかと思うほどバレエにのめり込んだが、伝統を十分に理解していないと言う。一方のピチェは深い文化の基礎を持っており、陳武康は彼の中に「伝統」に対する疑問の答えを見出した。自分を代表する文化とは何か、どのような伝統文化を持つべきか、という問いに。
そこで陳武康はピチェに依頼し、共同で「身体の伝統」プロジェクトを実施することにした。さまざまな歴史の中で舞踊がいかに形成され、それは身体にどのような影響をもたらしてきたのか。二人で歴史を整理していく過程で、陳武康は、まず己の歴史的背景を受け入れ、それから台湾文化を士林夜市のグルメ、大餅包小餅(大きめのお焼きで小さめのお焼きを包んだスナック)のようにイメージしてみた。一口かじると、柔らかさと硬さ、甘みと塩味が入り混じりつつ互いが衝突することはない。二つに分ける必要はないのだ。この心境の変化は、陳武康とピチェが共同で制作した作品『半身相』に現われている。

驫舞劇場とタイのピチェ・クランチェン
ラーマーヤナ
ピチェ・クランチェンとの共同作業で陳武康は東南アジアの舞踊に興味を抱くようになった。その舞踊はどこから来て、どう継承されてきたのか。こうした思いから「ラーマーヤナの身体史詩」3年計画が始まった。2017年、陳武康はピチェに案内されてインドネシア、ミャンマー、タイ、カンボジアを訪ね、それぞれの国の伝統舞踊の大家を訪ね歩いた。
Kolnはタイの宮廷舞踊で、インドの叙事詩ラーマーヤナの影響を深く受けており、仏教とも密接な関係にある。神聖かつ荘厳なKolnにおいては、伝承も慎重でなければならない。Kolnの大家はそれぞれ特殊な舞を持っており、大家が継承にふさわしい人を選び、国王の認可を受けてはじめて伝えることができる。
彼はこれら大家の努力に驚かされると同時に、東南アジアの伝統舞踊が消えようとしていることを知る。今年末、彼はこれらの大家を再び一人ひとり訪ねるつもりだという。

驫舞劇場とタイのピチェ・クランチェン(左)はワークショップでの交流を通して、ともに身体の伝統を探求した。
国境を越えた文化の養分
2005年、驫舞劇場の初の作品『M_Dans』の中に、外国の振付家の作品が二つ取り入れられた。当時陳武康はニューヨークと台湾を行き来していて、ニューヨークでの師であるエリオット・フェルドに作品を依頼した。陳武康を高く評価していたフェルドはミハイル・ニコラエヴィチ・バリシニコフのために作った作品を陳武康のためにアレンジし直し、台湾での上演を許可した。もう一つは、振付家のイガール・ペリーが来訪して驫舞劇場のために創作した作品である。
驫舞劇場の初舞台のチケットはすぐに完売し、陳武康は成功への第一歩を踏み出した。
続く2007年の作品『速度』は、メンバーたちがそれぞれ好きな音楽を選んで集団で創作したものだ。彼らは自転車やダーツなどのゲームを通してそれぞれ「速度」に対するイメージを膨らませていった。このテーマは想像力に満ちており、彼らの作品は第6回台新芸術賞の年度パフォーミングアート賞に輝いた。
同じことを繰り返さず常に新たな試みを求める驫舞劇場は、次の作品ではフランス出身のサウンド・アーティストであるヤニック・ダービーに依頼し、聴覚芸術とのコラボを実現した。
驫舞劇場の蘇威嘉団長は、ヤニック・ダービーによって聴覚への認識をあらためることになり、創作時に音楽の感情に流されなくなったと話す。「身体の動作自体に感情があり、自らの存在があるのです」と言い、今回の協力によって身体の解釈により注目できるようになったと言う。

驫舞劇場は実験の基地として身体創作のさまざまな可能性を探っている。
創作の基本に立ち返る
ぽっちゃりした体型の蘇威嘉は、かつてバレエダンサーとして挫折を味わったが、驫舞劇場結成後は、創作を通して舞踊に別の可能性を見出した。例えば2013年に彼が打ち出した『自由歩』シリーズでは、観客が理解してくれるかどうかを以前ほど気にしなくなったという。自分は創作時の最初の観客であり、自分が感動してこそ観客に見せることができると考える。
ダンスを鑑賞したことのない人にとっては「見ても分からない」という感覚が障害になる。これについて蘇威嘉は、台湾人は理解しようと考えるあまり、感じることを見落としがちだと指摘する。自分の目で見たものを信じる勇気が欠けているのである。彼は上演後の座談会などで「皆さんは本を読みに来たのではなく、本を書きに来たのです」と、自ら感じたことを勇敢に表現するべきだと語る。「好きではない」というのも一つの感覚であり、それなら、なぜ好きではないのかを考える。「理解できない」と片付けてしまうべきではないということだ。
蘇威嘉は、舞踊とはもともと抽象的なものだと言う。例えば『半身相』の場合、表現者の陳武康とピチェ・クランチェンは確かな基礎を持ち、表現経験も豊富なので、抽象的で分からないと思っても、二人の見事な身体表現を観賞するだけでいい。国が異なれば身体表現も異なる。ピチェは特に手の動きが見事で、二人の演技を見ていると、息をするのも忘れて口を開けたまま見入ってしまうと蘇威嘉は言う。
陳武康はこう考える。同じダンスでも見る人によって解釈は異なる。表現者は自分の角度から解釈し、振付師も自分の考えを持っており、一つの動きの解釈も無限に広がっていく。「芸術の最も貴い点は、答えが何百何千もあることで、自分の考えしだいなのです」と蘇威嘉は言う。

驫舞劇場は実験の基地として身体創作のさまざまな可能性を探っている。
創作の舞台を建てる
驫舞劇場の創設当初からのメンバーである陳武康、蘇威嘉、周書毅、楊育鳴、簡華葆は、当時は20代で若くエネルギーに満ち溢れていた。目上の人たちからダンスグループ創設の負担は大きいと忠告されたが、彼らは意志を貫いた。
最初の年は、あちこちに稽古場を借りては練習していた。賃貸契約終了直前の稽古場で練習していた時に不動産屋がやってきた時には、皆で引っ越し業者のふりをして難を逃れたこともある。当時は舞踊創作だけで食べていける環境はなく、団員たちはあちこちでダンスを教えながら生活を維持していた。
だが、こうした苦労も彼らの情熱を失わせることはなかった。彼らは専属の稽古場を手に入れるために家族や友人から借金をして家を借り、建材を買ってきて素人だけで稽古場を作り上げた。こうして最初の稽古場ができた時、一日中自由に使える場が創作者にとっていかに重要であるかが、より明確にになった。思いついた時に、いつでも創作に取り組めるのである。
驫舞劇場は月に一度「混沌身響」プロジェクトを行なっている。驫舞劇場が舞踏家を、卡到音即興楽団が音楽家を招き、双方が初対面の状態でぶつかり合い、ダンサーが身体の本能で音楽演奏に応えるという実験的な試みである。
2016年にスタートしてから、ピアノやバイオリン、電子音楽などさまざまな形式で行ってきた。招かれたダンサーも身体を動かすだけでなく、身体を叩くなどして音を出して音楽に反応し、思いもかけない喜びが生まれる。招かれたダンサーもミュージシャンも観客も、創作エネルギーを満たすことができる場だ。
十数年来、驫舞劇場はアメリカや日本、タイ、イスラエルなどの優秀な人材とコラボし、『半身相』や『両男関係』といった作品を打ち出して、内外から高い評価を得てきた。国境や文化を越えた、あるいはジャンルを越えたぶつかり合いを通して驫舞劇場はダンスへの情熱をもって、その創作の世界へ人々を招き入れている。
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陳武康(左)と蘇威嘉(右)は出会って20年余り、香港の林奕華監督と共同で制作した『両男関係』は舞踊を通して深い友情を表現し、高い評価を得た。
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驫舞劇場はイスラエルの舞踊家シャイ・タミールと長年にわたって手を組み、数々の作品を生み出してきた。

面立ちも表情もバックグラウンドも似ている陳武康(左)とピチェ・クランチェン(右)は、作品『半身相』の中でともに身体史観を表現する。

ダンスへの情熱から、驫舞劇場は異なるジャンルの人々を招いてともにダンスを楽しんでいる。