心は欧州、地理的にはアジア
オーストラリアもニュージーランドも人口の多くはヨーロッパ系で、文化的にもヨーロッパに近いが、地理的にはアジアに近い。地理的な位置と歴史・文化的な背景が矛盾するため、マレーシアのマハティール元首相は、同国を「アジア太平洋地域の孤児」と呼んだこともある。
オーストラリアに駐在する我が国の林松煥;・代表によると、同国の産業はかつては農業・牧畜業が中心だったが、近年は鉱業やサービス業へと転換し、アジア四小龍が主たる顧客になった。台湾はオーストラリアにとって第8の貿易相手国、最大の貿易相手国は中国大陸だ。オーストラリア政府は、急速に成長するアジアとの関係を強化するために、移民の受け入れを開始した。移住者の40%はアジア出身である。
オーストラリアがアジアとの友好関係を重視し始めた頃、台湾でも海外への移住を後押しする状況が生じていた。
1980年代末、台湾では戒厳令が解除され、政党結成や新聞報道が自由化され、世の中が大きく変わりつつあった。経済は急成長し、株価や不動産価格は高騰した。その一方で中国大陸との関係は不安定で、省籍を異にする者同士の対立があり、治安は悪化し、進学競争は激しく、生活環境も悪化しており、一部の人は「海外移住」を考えるようになった。
「一度移住した人は再び移住します」と話すのはブリスベンでレストランを経営する権衡さんだ。中国大陸から台湾へ逃れてきた彼の両親は、李登輝総統時代に政治に不信感を抱き、オーストラリアへの移住を決めた。が、老夫婦は英語もできないし、車の運転もできないので、その世話をするために彼も後から移住した。ところが、台湾で「外省人」と呼ばれる彼らは、高雄出身の移住者が多いブリスベンでも少数派で、自分たちには故郷がないように感じることも少なくないと言う。
1999年の台湾大地震の2週間前、鄭毓;琴さんは小学校を出たばかりの息子を連れてオーストラリアへ移住した。6年後、妹を説得してその一家4人も移住し、中学1年だった甥は兵役に就く必要がなくなった。
オーストラリアの国勢調査によると、出生地が台湾の移民は1981年にはわずか877人だったのが2001年には約2万2000人となった。1996年の国勢調査より14.7%増加している。2003年にオーストラリアでは移民法令が改正されて移住の審査が厳格になったが、その後も少しずつ増えている。
世界で最も移民の多いオーストラリアでは、街を行き交う人々の5人に1人が外国生まれだ。そのため多様性と包容がその文化の特色を成している。