
膠彩という技法の絵画は日本統治時代に台湾に導入され、台湾ではさまざまな名称で呼ばれてきた。日本画、東洋画、国画、膠彩画などである。社会や文化が発展し変化する中で、膠彩画の名称も変わり、その時々の時代の運命を反映していた。激動の中、かつては画壇の主流だったものが一度は失われかけたが、環境がどう変わろうと、画家たちは弛まず創作を続け、膠彩画は台湾に根を下ろしてきた。そのすべてが得難いものであることから、作品の前に立ち、そこに込められた生命力を目の当たりにすると、心の中が大きく波打ち、涙さえあふれてくる。ここでは、台湾の芸術家が膠彩を通してどのようにこの大地の美を描いてきたかを見てみよう。

陳進「悠閑」、1935年、台北市立美術館所蔵。
芸術におけるフォルモサの時代を
百年余り前にさかのぼると、台湾の画壇では、伝統の水墨画とも西洋画とも違い、色鮮やかな岩絵具を用いた、繊細なタッチと美しい色彩の絵画が一世を風靡していた。これが現在の「膠彩画」、当時は「東洋画」と呼ばれたものだった。
台北市立美術館アシスタント研究員で「喧囂的孤独:台湾膠彩百年尋道」展のキュレーターを務めた陳苑禎さんは、こう説明する。当時の日本の美術体系と日本画発展の背景を探ると、日本は、西洋画と肩を並べる独自の絵画スタイルを発展させたいと考えており、そこで東西の技法を融合させた新しい日本画が生み出された。この流れが日本統治時代に台湾にも伝わったのである。
1927年、台湾では台湾美術展覧会(略称「台展」)が開かれた。当時、台湾にいた日本人画家は学校での美術教育に携わり、また政府主催の美術展の審査員などを務めていたため、その創作スタイルと思想が台湾人画家にも影響を及ぼした。これにより写生が奨励され、地元の景観などを観察する習慣ができた。例えば、日本人画家の郷原古統の作品は、色遣いが華やかで日本画の装飾性を備えている。その作品「麗島名華鑑」は台湾の植物を描いたものだ。このような身近な風土や人間模様から題材をとった創作が盛んになり、「ローカルの色彩」をとらえた作品が生み出され、細密で厳格な写実性が追求されるようになる。例えば、郭雪湖の「圓山附近」や蔡雲巌の「竹林初夏」などからも、対象を細密に、なおかつ画面いっぱいに描くスタイルが見て取れる。
しかし、膠彩画が本格的に台湾に根を下ろしたのは、台湾人画家の台頭があったからである。陳進と林玉山、郭雪湖の3人の新鋭画家が第1回台展に入選し、「台展三少年」と称えられた。以来、膠彩画は台展で勢いを持つこととなる。
台湾人画家が描く風景や人物、動植物などは、独特の「ローカルの色彩」を持つものとして日本の美術界でも評価され、台湾独自の膠彩画のスタイルが形成されていった。これは「芸術におけるフォルモサ時代の到来を期待する」と述べた芸術家‧黄土水の言葉と呼応する。

林玉山の「蓮池」が、政府文化部によって国宝に指定されてから十年目、国立台湾美術館は「芸術を暮らしに」という理念を実践し、同作品を用いた磁器を制作した。(国立台湾美術館提供)
時代の変化
こうして隆盛を極めた膠彩画だが、第二次世界大戦が終結すると、運命の大きな変化に直面することとなる。1945年、国民政府は台湾省全省美術展覧会(略称「省展」)を開催する。
政権は変わったが、台湾の画家たちは変わらずにローカルの色彩に関心を注いでいた。陳苑禎さんは「日本統治時代以来、土地の人情を描くというスタイルは、台湾美術をつないでいく根となったのです」と説明する。日本統治時代の「ローカルの色彩」は主に自然の景観や風景だったが、戦後は生活の風景に目が注がれるようになる。例えば、林之助の「水影」が描くのは、近所の人が川で洗濯をしている光景だ。また温長順の「団円飯」は、当時の簡素な台所の情景をテーマとし、女性が薪をくべて料理をしている日常の光景が描かれている。
しかし、戦後の社会的環境から多くの画家は創作の方向を転換せざるを得なかった。高雄市立美術館に収蔵されている林玉山の「献馬図」は、まさにこの時代を代表する作品の一つである。この作品のオリジナルは日本統治時代の末期に描かれた。当時は物資が欠乏していて、当局は民間に馬の提供を求めていた。この絵に描かれているのは馬を献上しようとする台湾の軍人で、馬の背後には日本の国旗が描かれていた。しかし、国民政府が接収した後の台湾では、芸術家は日本の国旗を描くことで作品に影響がおよぶことを恐れ、作品中の日本の国旗を中華民国の国旗へと描き変えた。それから長年の後、しまってあった画作の半分がシロアリに食われてしまった。その損壊した半分を修復する時、画家はこの歴史を残すために、左半分は当時描き変えた中華民国の国旗、右半分は日本統治時代に描いたままに復元したのである。画家が政治に翻弄されたという歴史を示す上で意義があると言えるだろう。

郭雪湖「南街殷賑」、1930年、台北市立美術館所蔵。
大地の鼓動に近づく
国立台湾美術館の研究員‧林振茎さんは「台湾美術の発展において、膠彩画ほど多難な運命に翻弄され、しかもこの大地と深く結びついていたものは他にありません」と言う。膠彩画は一度は人々に深く愛され、また政治環境の変化によって身分のアイデンティティという難題に巻き込まれ、さらに政府主催の美術展や教育体系において消失さえした。膠彩画の発展を整理していくと、それはまさに台湾美術史の精神の再構築と符合する。「これらの優れた膠彩作品を鑑賞すれば、国民は台湾文化を理解でき、己の主体意識と文化の価値を肯定することができるでしょう」と林振茎さんは言う。
国立台湾美術館が4月から開いている「時代印記-国立台湾美術館典蔵常設展」では、明代、清代から現代までの各種コレクションを年代順に展示している。その中で「引光顕影:20世紀前半台湾美術在地色彩」エリアを企画した国立台湾美術館の薛燕玲‧研究組組長はこう語る。新しいタイプの日本画が入ってきたことは、台湾の画家に技法の上でも、ローカルの色彩をあらためて見直すという点でも、深い影響を及ぼした。例えば、村上英夫が繊細なタッチで台湾の中元祭の様子を描いた「基隆燃放水灯図」が、第一回台展の特選に輝いたことから、多くの人が民間の風習などに題材を求めるようになった。薛燕玲さんは、この展示を通して、日本人画家がどのように台湾の風土や民情を見ていたかを知ってもらい、また台湾人画家がどのように自分たちの生活や文化をとらえていたかも見てもらいたいと考えている。

国立台湾美術館は年代を追う形での「時代印記-国美館(国立台湾美術館)典蔵常設展」を開催している。明代、清代から現代までの所蔵作品から、台湾で蓄積されてきた芸術のエネルギーが見て取れる。(国立台湾美術館提供)
膠彩画の激動の時代
戦後の台湾の画壇には、それまで活躍していた膠彩画家に加え、国民政府とともに水墨画家が渡ってきた。そうした中で開かれた省展は、西洋画部門、国画部門と彫塑部門に分けられ、膠彩画は「国画部門」に入ることとなった。膠彩画家は水墨画家との交流もあり、膠彩と水墨の技法を融合し、墨を感じさせる膠彩作品を生み出すようになった。国立台湾美術館所蔵の、郭雪湖の「月下美人」、林玉山の「水郷即景」、陳進の「廟前」なども、水墨画の写意を取り入れた作品として知られている。
しかし、政治情勢が変化するにつれ、芸術界では「正統の国画の争い」が始まる。この論争によって1963年の省展の国画部門は「一部」と「二部」に分けられ、膠彩画は「国画二部」とされて、その地位は区別されたのである。
膠彩画家は国画の正統性の論争だけでなく、西洋の現代アートの潮流にもさらされる。現代アートの抽象主義、キュビズム、フォービズムなどの影響を受け、膠彩画家も新しい技法やスタイルを試み始めた。ひとつの作品に東洋と西洋の技法を共存させた陳慧坤の作品「烏来瀑布」は従来の水墨画とは異なる風格があり、「合歓連山」はフォービズムやキュビズム、印象派などの西洋の要素を取り入れていて、膠彩画の新たな可能性を示したと言える。
芸術家の創作は、時代や環境の変化に深い影響を受ける。1970年代に入ると、台湾は外交面で社会を揺るがす大きな転換期を迎え、知識人の間では、己の主体性を見出し、この土地の文化の記憶を再構築しようという郷土文化運動が始まった。ここで注目したいのは、「喧囂的孤独:台湾膠彩画百年尋道」展の「守画域-定名(画域を守る―名を定める)」エリアだ。ここにはさまざまな宗教を題材にした作品が展示されている。陳進の「北港朝天宮」や陳寿彝の「霊之威武」、詹浮雲の「廟」などだ。キュレーターを務めた陳苑禎さんによると、展示作品を選ぶ際に特定の主題で選んだわけではなく、画家ごとに作品を分け、さらに発展の流れで分けていくと、これらの作品が同時期に描かれていることがわかったのだという。これら郷土の暮らしというテーマは、当時の台湾郷土文化運動の精神と符合している。

林玉山「水郷即景」、1953年、国立台湾美術館所蔵。
多様で奔放な発展
1973年、膠彩画は省展における舞台を失った。そうした中、1977年に林之助が新たな命名を提唱し始めた。その主張は、作画の媒材の特質と形式の多様性に焦点を当て、過去のように政治的影響を受けない「膠彩画」という名で呼びたいというものだった。こうして省展では1983年に「膠彩画部門」が設けられることとなったのである。それまでさまざまな論争や難題に直面してきたが、膠彩画家たちは黙々と創作を続け、アトリエを開き、また画会や協会を設立し、膠彩画が再び表舞台に返り咲く時を待っていたのである。
1985年、林之助は東海大学の招きを受けて膠彩画を教えることとなり、台湾のアカデミックな体系において膠彩画という部門が確立され、正式な継承と系統が構築された。これにより、しだいに新たな創作者が生まれ、新しい世界が広がり始めたのである。現代の創作者は伝統の制限を受けることなく、膠彩画の特質を通して個人の考えや解釈を表現し、より多くの実験的、革新的な試みもできるようになった。例えば、潘信華の「面痣風景画」は観相学と風水と景観を結び付けた作品で、神秘的な雰囲気を持つ。葉采薇の「好想回家」は日常を題材としている。宴席で酒を酌み交わす大人たちをつまらなそうに見ている子供を描いた作品だ。
日本統治時代に台湾に持ち込まれ、戦後の本土化や現代的技法によって大きく発展するまで、膠彩画は常に台湾社会の変化と密接に関わってきた。陳苑禎さんは「作品の中から、自分たちの土地や風景、人や文化の特質に対する思いが常に膠彩画発展の血液の中にあったことを私たちは見て取れるのです」と言う。
中央研究院歴史言語研究所の兼任研究員である顔娟英さんは著書『台湾美術両百年』にこう述べている。「台湾の貴さは、四方の海から入ってきた多様なものの血縁や文化が融合し、そこから新たに創出されるエネルギーにある」と。膠彩画こそ、まさにこうしたエネルギーを証明しているのではないだろうか。

陳慧坤「烏来瀑布」、1951年、国立台湾美術館所蔵。

膠彩画の数々の困難に直面し、林之助は絵画教室を開き、「膠彩画」という名称を定着させてきた。その作品「小閑」はシンプルな構図に整然とした筆遣いが際立つ。「暮紅」はキュビズムの手法を試みた実験的な作品だ。(林格立撮影)

林之助「小閑」、1939年、台北市立美術館所蔵。

林之助「暮紅」、1963年、国立台湾美術館所蔵。

陳進「北港朝天宮」、1966年、順益台湾美術館所蔵。

詹浮雲「廟」、1974年、台北市立美術館所蔵。

現代の芸術家は、伝統技法の制限を受けることはない。膠彩という手法で己の理解や解釈を表現し、より実験的、独創的な創作にもチャレンジできる。