Home

グローバル・アウトルック

南廻地方の医療ために

南廻地方の医療ために

——スーパードクター 徐超斌

文・鄧慧純  写真・林格立 翻訳・笹岡 敦子

6月 2019

南廻地域のスーパードクター徐超斌。(林格立撮影)

「医師の一人として、私は、人類への奉仕に自分の人生を捧げることを厳粛に誓う。私の患者の健康と安寧を私の第一の関心事とする。」

——2017年『ジュネーブ宣言』より

台湾の僻地に「患者の健康と安寧を第一の関心事とする」ことに執着する医師がいる。自らの命を燃やして、全身全霊を注ぎ、職場で脳卒中に倒れても、動く右半身を頼りに医療を続ける。南廻地方のスーパードクター徐超斌である。

 「スーパードクター」の名にはワケがある。南部の人は北部へ移り住み、台東の人は仕事のあるところへ東西南北をさまよう時。台北医学大学を卒業して、奇美病院救急室で全面的な経験を積んだ徐超斌が選んだのは、東部の故郷へ戻り、優れた医術で故郷の先住民族を守ることだった。医療資源に乏しい集落を見つめ、スーパーマンのように命をかけて人々の健康を守ろうと駆け回る。一週間の走行距離は台湾一周1173kmに迫った。

徐超斌が医学を志したのは、故郷へ帰って南廻の人々の健康を守るためだった。(医療財団法人南廻基金会準備処提供)

南廻地方に関する数字あれこれ

徐超斌が働く僻地は、時間も交通も都会とは感覚が全く異なる。南廻地方で「隣に行ってくる」とは、山を一つ越えることである。コンビニまで車で30分かかる。集落には公共交通機関がない。市場に買い物に行くのに車を借り切って500元、役場に行くのに700元、台東市の病院へは1500元かかる。

台東市から屏東県楓港に至る南廻公路は、全長100km以上にわたって病院が一つもない。2002年に徐超斌が地元に戻った当時、達仁郷の人口4141人に対して医師は1人だった。住民は都市と同じ健康保険料を支払いながら、平日夜間と週末は病気になるわけにいかなかった。診療時間外だったのである。

2006年、徐超斌の努力で、どうにか南廻公路沿いの大武郷に初の24時間救急ステーションができた。だが、徐は相変わらず月400時間の勤務を続けていた。2006年9月19日午前1時、徐超斌は連続勤務80時間に達していた。大武救急ステーションで最後の患者の処置を終え、一息入れようとしたところで、宿直室で意識を失った。再び目が覚めた時には、左半身の機能を失っていた。39才だった。

南廻協会が設立したデイケアセンターでは、中・重度の要介護者にデイケアサービスを提供している。

医学を志したのは故郷に帰るため

台東県達仁郷の土坂集落出身の徐超斌は、10歳の時に父によって街へ勉強に出され、35歳にようやく故郷へ戻る。だが集落の血脈が途切れることはなかった。徐は、祖父母に養育される「留守児童」の中でも特殊なタイプだった。父が仕事と病弱な母の世話に忙しく、徐超斌は母方の祖父母に預けられた。「私の教育環境は父母に与えられたものですが、人格教育は祖父母によります。祖母はパイワン族の呪術医で、パイワン族の神話を教えてくれました。たいへん知恵のある民族で、パイワン族であることを誇りに思いました。そして祖父は、人として勇気をもち、謙虚で、善良であるべきことを身をもって教えてくれました」こうして、徐超斌は自信と誇りをもち、先住民族であることを誇りにしている。

学校ではいつも注目の的だった。端正な顔立ち、前向きでユーモアもあり、ギターと歌で場を盛り上げ、スポーツも得意なうえに、医療の腕もよく、人に優しかった。当時はとても自信家だったという。「態度は大きいが嫌味はない。それだけの実力があったから」と徐超斌は振り返る。

台南の奇美病院で5年間鍛え上げた。徐超斌は奇美病院で初めて内科も外科も専攻した救急専門医として、人生の絶頂にあった。だが徐超斌は高収入の西部の病院を辞め、東岸の故郷に帰る決心をする。

「半年悩みました。私もただの人間ですから、給料も生活環境も落差は分かっていました」しかし医師を目指した初心を思い出す。「故郷に帰るために医学の道に進んだのです」徐が7歳の時、2番目の妹が病院までもたずに亡くなった。暗闇の中、幼い心に誓った。「将来、医者になって、もう二度と集落の人たちを病院に行く途中で死なせない」と。

徐超斌は自らが病に倒れた後も第一線に戻ったが、住民からは以前と変わらず信頼されている。(医療財団法人南廻基金会準備処提供)

家族のような関係

故郷へ帰ると、台東県達仁郷衛生所に勤務した。集落で夜間や休日診療がなくて困っていると知ると、24時間救急ステーションの設置を目標に、夜間・週末も診療し、診療時間を延長した。僻地で医師は一人しかいない。ほとんどのシフトを一人でこなした。若さに任せて月400時間以上働いた。どうしてそこまで無理できたのかと尋ねると、問い返された。「徹夜で金庸の小説を読んだこと、あるでしょう? 夢中になって、気づいたら朝4時5時なんです」志を胸に「夢中で取り組む」徐超斌は、2006年ついに24時間診療の大武救急ステーションを設立し、僻地の夜も、患者がさまよう必要はなくなった。

だがその年、徐超斌の方も過労のために脳卒中を起こしてしまう。一命はとりとめたが、左半身がマヒした。

半年休んだだけで、気持ちはまだどん底だったが、徐超斌の心は故郷の人々から離れず、職場に戻った。だが、ためらい、思い悩んだ。手足が不自由な医師を見たら、患者はどう思うだろう。ところが、期待と気遣いの顔に迎えられたのだった。変わらぬ信頼があった。執刀医に徐超斌を指名する人さえいた。「こちらに勇気があるのか、患者が怖いもの知らずなのかわかりませんでした」と苦笑する。そこで、仕事に取り組む傍ら、片手での縫合を練習した。「患者に、どうしたら良い医者になれるか教えてもらったのです。命がけで応えないわけにいきません」

取材の日は徐超斌の休日だった。徐超斌の後について土坂にある達仁郷デイケアセンターを訪ねた。要介護の高齢者のデイケアを行っている。徐超斌がパイワン語で80代のおばあさんと親しそうに話している。祖母と孫のように、楽しげに笑う。続いて更に遠い新化文化健康ステーションへ向かった。徐が所属する衛生所の巡回医療で、必ず行く場所である。正午近くに到着すると、高齢者が何人もスクーターで帰るところだったが、徐超斌が来たと聞いて引き返してきた。顔を見るなり「徐先生、どうしてこんなに長いこと来なかったんですか?」と尋ねた。舞台で披露する歌を皆で徐超斌と練習し、喜びと笑い声があふれた。そして、徐超斌のトレードマークの「首をかしげて可愛い子ぶる」ポーズで一緒に写真を撮った。口々に、月に一度は来てくれるよう徐超斌に約束させると、喜んで帰っていった。

こうした家族のような関係には、心を動かされる。都会では、一人の医師が百人以上の患者を診るが、いつ訴えられるか分からない。一方、僻地では、人と人との一番シンプルな信じ委ねる間柄をこの目で見ることができた。徐超斌の問診は、患者と世間話や身の回りの話をする。徐が出した薬しか飲まない患者も多い。台中に引っ越した患者も、台湾を半周して徐超斌に診てもらいに来る。「患者の生活の質を上げることが、長生きすることより大切だと思っています」と言う。

自ら病に倒れてからの徐超斌には、患者の苦しみがより身に染みて分かり、なおさら患者の焦りや無力さが理解できる。「以前より患者の立場から医者と患者の関係を見られるようになったことが、倒れる前と一番大きな違いです」

「健康とは、体と心と社会の安定した状態です」徐超斌によると、都市では健康は単なる医療の問題だが、僻地では健康とは複雑な社会問題であり、リソース不足や交通、生活習慣、文化の摩擦、社会的地位の低さなどの要素も内包するという。思い描く南廻病院は「人々の暮らしと密接に関わる地域型の病院で、高価な設備は買えなくても、暖かい空間として、治療を求めてきた人の痛みや苦しみを取り除くだけでなく、心の安らぎを得られる場です」

まるで家族のような患者と医師の関係。徐超斌は、僻遠地域住民が長生きすることより生活の質の方が重要だと考えている。

徐超斌が徐超斌を超える時

リハビリの間、徐超斌は一度ならず神に尋ねた。「私が倒れる時は、もう少し遅く、南廻病院が完成して、もっとたくさんの夢をかなえてからにできなかったのでしょうか?」神の御心に思いを巡らせた。足を止めてよく考えるようにということなのかもしれない。こわばった左半身のことは考えないようにして、器用に動く右手と右足に目を向けた。集落の巡回診療を続けながら、徐超斌はキーボードに向かって、よく動く右手で一字一句、自身の命の物語を打ち込んでいった。『4141の鼓動を守る』が出版されると、大きな反響を呼び起こした。

「この機会に僻遠地域が必要としていることを広く伝えなければ」という編集者の言葉に、取材を受けたり講演に行ったりして、僻地の苦境を話して回った。「一人の力は小さいから、神が社会の愛と力で南廻病院を建設するよう私に仰せなのでしょう」

あきらめようと思ったことは?「ほとんど毎日」だという。「毎日あがいています。でも日が昇って、鏡に映った今日もイケてる自分を見て、まだ集落のために何かできる、まだ自分には価値が残っていると思うと、また立ちあがって走り続けられるんです」自称イケメンの徐超斌は、いつもの調子でおどけてみせる。

南廻病院設立計画を発起し、「社団法人台東県南廻ヘルスケアプロモーション協会」(南廻協会)を設立し、「医療財団法人南廻基金会」のために寄付を呼びかけている。僻地にありがちな高齢化、祖父母が孫を養育する出稼ぎ家庭の問題も、南廻協会が一手に引き受ける。訪問介護を行い、独居老人に寄り添う。長期介護センターを設けて、中・重度の要介護者に24時間介護を実施する。箱舟教室を立ち上げて、学童の放課後指導を行い、グローバル化の大きな波にも立ち向かえる自信を、豊かな放課後学習で育てる。

孤軍奮闘していた徐超斌は、南廻協会を設立し、より多くの人を南廻地方の医療ケアに呼び込んだ。「どんなに頑張っても、そこそこ腕のいい医師でしかなく、やる気があっても一人の力には限りがありました。今はたくさんの力を呼び込んで、ともに南廻地方に注ぎ、ともに医療水準を、教育水準を上げています。以前の私にはできなかったことです」

「医療しかできなかった私を超えたと思いませんか」取材を終えた後も、徐超斌の言葉が耳について離れない。南廻病院の申請案はまだ審査中だが、彼は台湾の民間の力が、南廻病院の夢を実現させると信じてやまない。

ラジオ番組で台東の芸術家イミン・マヴァリューにインタビューする徐超斌(右)。彼は定期的にラジオを通して支持者と対話をしている。

ミュージシャンたちが賛同して開催した「4141廻音音楽フェスティバル」は、「我々はみな徐超斌」を合言葉に僻遠地域の弱者のために声を上げた。(医療財団法人南廻基金会準備処提供)

4141は徐超斌の記憶にある、かつての達仁郷の人口だ。

南廻の住民も同じように健康保険料を納めているのだから、同様の医療資源を得るべきである。(医療財団法人南廻基金会準備処提供)

南廻病院設立までラスト1マイルを残すのみとなり、僻遠地域の住民もまもなく十分な医療が受けられるようになる。