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神仙の郷 鹿港

神仙の郷 鹿港

その信仰と伝統工芸

文・蘇俐穎  写真・林旻萱 翻訳・山口 雪菜

5月 2025

著名な灯籠工芸師が開いた呉敦厚灯舗で、父の跡を継いだ呉怡徳さん。

決して広いとは言えない鹿港の町だが、この地域の歴史文化を研究する陳仕賢さんの統計によると、鹿港の町には60もの廟があり、信仰と祭祀が非常に盛んなことがわかる。中華民俗芸術基金会の林明徳董事長は、儒教、仏教、道教などの民間信仰が集まった鹿港は、ひとつの「神仙の郷」だと語っている。

時代が変わるにつれて伝統的な儀礼や風習なども廃れてきたが、他の地域に比べると、鹿港では今も完全な形で伝統が引き継がれている。春節が終わったばかりの鹿港を訪れると、特にそれが感じられる。

中山路にある信泉家具店は1973年創業、主にタイワンヒノキの家具を扱っている老舗である。女将の許瓊さんと二代目の黄欣眉さんが、鹿港の人々がどのように一年の祭日や行事を過ごすかを話してくれた。

七娘媽にお供えする湯圓(白玉団子)は中央を窪ませてあるが、これは織姫の涙を受けるためだとされている。(陳仕賢提供)

一年中祭祀が絶えない「神仙の郷」

鹿港の正月は忙しい。旧暦の元日、人々はまず公媽(ご先祖様)と神様、地基主(家の守り神)をお祀りする。お供えの種類と数は奇数でなければならず、必ず鶏とアヒル、魚、豚肉を一品ずつ用意しなければならない。

旧暦の1月9日は天公(玉皇大帝)の生誕日で、前日の子の刻(午後11時)から天公を祀る儀式を行なう。「早起きの高齢者は朝の4~5時から礼拝を始めます」と黄欣眉さんは言う。供物は五牲(豚、羊、鶏、アヒル、魚)で、このほかに素麺や寿桃(桃の形の饅頭)を用意する。

それから間もなくすると、今度は上元節(元宵節/小正月)となり、小豆やピーナッツの餡を包んだ湯圓(白玉団子)を食べる。昔は「小学生は夜に学校のグラウンドに集合し、自分で作った竹の灯籠を手に中山路を練り歩いたものです」と黄欣眉さんは思い出を語る。

一年の前半でもう一つ重要な行事は清明節だ。料理を担当する女性たちは、清明節の一週間前から市場の親しい商店に春巻の皮を予約し、さまざまな料理の準備をする。清明節の当日は、公媽と神々、地基主をお祀りする。

夏の到来を告げる端午節は、春節に劣らないほど大切でにぎやかな祭日だ。この日、鹿港の龍山寺では龍王尊神の巡行を行なう。同時にドラゴンボートレースの会場では天后宮の水仙尊王をお迎えし、ドラゴンボートの龍に目を入れる儀式を行なう。昔は、レースが行なわれる川の岸辺で綱引き大会も開かれた。この日、女性たちは漢方薬店で香料を買ってきてチマキを作り、子供たちは匂い袋を身につける。この日に饘䬾(煎堆/ゴマ団子)を食べる風習もあり、家で手作りする人もいるが、城隍廟でも市民に提供している。

端午節が終わると、次は中元節である。旧暦の7月1日、鬼門が開かれる日には済度の法要が欠かせない。続く7月7日は七星娘娘(七星媽)の生誕日で、紙で七娘媽亭(3階建ての建物)を作り、中央の窪んだ湯圓を作ってお供えする。団子の中央を窪ませるのは、七娘媽様の涙を受けるためだと言われている。

一般に中元の供養は旧暦7月31日で終わるが、鹿港の人々は無縁仏が一日多くこの世で遊んでいけるようにと考え、旧暦8月1日に中元済度の最後の儀式を行なう。鬼月(鬼門が開いている旧暦7月)には王爺による夜間の巡行「暗訪」も行なわれる。鹿港の「暗訪」は時間が決まっておらず、神がかりが神のお告げを聴いて決める。

広いとは言えない鹿港の町には60もの廟があり、まさに「神仙の郷」と言える。

祭祀のために生まれた至高の芸術

さまざまな行事のための供物の種類は多く繁雑で、多くは女性たちが用意しなければならないため、「鹿港の女性たちは非常に器用です」と黄欣眉さんは言う。

鹿港では、祭祀や伝統工芸に関連する業種も非常に盛んである。鹿港のメインの通りである中山路だけを見ても、木彫、神卓(神棚)、金紙、線香、灯篭、菓子などの店が林立している。鹿港の人々は昔からこうした工芸に日常的に親しんでおり、林明徳さんはこれを「多芸在身」と言う。

例えば、国宝級の絵師である郭新林氏の作品は天后宮などの廟の門扉や藻井(飾り天井)などに残されている。彼は絵画だけでなく、書にも精通しており、漢詩クラブ「半閒吟社」のメンバーでもあった。

また、鹿港の街で、何気なく通りかかった銀楼(貴金属店)を見ると、そこは金の彫刻で国家工芸賞を受賞した鄭応諧さんが開いた店で、店のウィンドーには見事な純金の彫刻作品が展示されている。

こうして鹿港の文化の厚みに触れると、自ずと敬意が湧いてくる。

忙しい正月のほかに、端午節も鹿港の人々にとっては重要な祝日である。(外交部資料写真)

控えめで優雅な鹿港の味わい

鹿港の文化の奥深さは日常の暮らしにも表れている。名門一族である辜家の邸宅を改装した「鹿港民俗文物館」を訪れると、中央の立派な部屋には3点1組の巨大な神卓が並び、後ろの壁には書画がかけられ、部屋の両側にはこれも立派な一人掛けの椅子が並んでいる。

これが名門の家の風格である。しかし、書家の呉肇勲さんによると、鹿港では一般の家庭でも、客間にはテーブルと2脚の椅子があり、壁には書画がかけられているという。その書画の内容から、家の主人の素養や趣味が読み取れるのである。「これが典型的な『鹿港味』ですよ」と呉肇勲さんは言う。

これらの家具について信泉家具店の二代目である黄欣眉さんはこう説明する。鹿港の伝統的な木製家具は主に明代の家具の形を継承しており、昨今大量に輸入されている中国式家具のような複雑な装飾や華やかさはないと言う。

中華民俗芸術基金会の林明徳董事長。長年にわたって「彰化学」を研究してきた。

工芸から芸術へ

百年以上にわたって文化が受け継がれてきた鹿港では、芸術の二大イベントが行われている。

1978年から端午節に行なわれてきた「鹿港慶瑞陽」(前身は「民俗才芸活動大会」)は、すでに40年以上の歴史を誇り、その規模も性質も現在よく行なわれるアートフェスティバルに匹敵する。

1996年、工匠の始祖とされる魯班の生誕日に、鹿港では「魯班公宴」が開かれ、108のテーブルにさまざまな工芸品が展示された。人間国宝や国家工芸成就賞、薪伝賞などの受賞者の作品も展示され、素晴らしい展覧会となった。

伝統を受け継ぐだけではない。「鹿港の工芸は一歩進んで芸術へと発展しており、職人が芸師へ、さらには芸術家へと生まれ変わっています」と林明徳さんは言う。これは華人文化圏においても珍しいことだ。私たちが鹿港の町のあちらこちらで職人の話を聞いてみると、これが事実であることがさらに明らかになった。

捏麺人(小麦粉やもち米粉を練った生地に色を付けて人間や動物の形を作ったもの)の職人である施教鏞さんは「怡古齋」という茶房を開いている。捏麺人職人の三代目として、捏麵や紙細工、陶芸などに秀でた施教鏞さんは、幼い頃から父親と一緒に廟の門前に露店を出して実演販売するようになり、この経験から臨機応変に対応する力が付いたと言い、台湾語で「腹肚那枵全步數 腹肚那飽無半步」と話す。腹が減っている時は何でも懸命にやるが、満腹になると何もできなくなるという意味だ。

「怡古齋」の看板メニューである「麺茶氷」(炒めた小麦粉をかけたかき氷)も良い例だ。かつて物資が乏しかった時代は食糧の配給制度があり、一家の食事を担当する女性たちは、節約して小麦粉を大切に使っていたが、長く保存しているとカビが生えてしまう。そこで殺菌と防虫のために小麦粉を炒めてみると香ばしい風味が出てくることに気付き、これをお湯で溶いて飲むようになったのが「麺茶」である。怡古齋で、この「麺茶」を使ったかき氷と冷たい麺茶などのスイーツを出したところ好評を博し、鹿港を代表する名物となったのである。

怡古齋の後ろには施教鏞さんのアトリエがあり、驚くほどの数の捏麺作品が陳列されている。「おふくろの腹の中にいた頃から作っていた」と話すこの職人が生涯をかけて作ってきた作品たちだ。宗教神話の登場人物、歴史上の人物、動植物、それにアニメのキャラクターや祭祀の供物まで揃っている。

驚かされるのは、これらの作品が牛角籤という小さな道具と手だけで「つまんだり、押したり」して作られていることだ。それだけの細工で生き生きとした造形や表情が作り出されているのである。廟芸術の影響を受けてきたからか、彼の作品には、交趾陶(廟の装飾に用いられる陶器)のような繊細さがあると評する人もいる。

テーブルと椅子、そして壁にかけられた書画。これが雅を追求する典型的な「鹿港味」である。

廟の祭器が芸術品に

続いて私たちは、ヨーロッパ風の「萬能錫芸館」を訪れた。欧州の城のような外観の建物の中には、国家工芸成就賞を受賞した陳萬能さんと、その息子である陳炯裕さん、陳志揚さん、陳志昇さんの4人の錫工芸品が展示されている。

林明徳さんによると、鹿港の木彫名人である施至輝さんが神像彫刻からキリスト像彫刻に足を踏み入れたことで、芸術創作への道が開けたが、陳萬能さんも同じような経緯をたどったという。

「錫」の昔の漢字は「賜」と同じ発音だったため、廟などの祭器の多くが錫で作られた。私たちを迎えてくれた陳志揚さんは錫工芸一家の三代目である。その話によると、以前は錫の原価が高いため、コスト削減のために銅と混ぜられることが多く、そのために錫製品は「壊れやすく、すぐに黒くなる」というイメージを持たれていた。父親の陳萬能さんは祭器市場の衰退を見て、純粋な錫を用いた創作に切り替え、これによって一挙に名を上げたのだという。

館内に展示された陳親子の作品を見ていくと、神獣と神の姿を融合させたランプや燭台、盆などに加え、純粋に芸術的な神仏や歴史上の人物、動植物などの作品がある。硬くて冷たい光を放つ錫材に、青銅や紅銅、金箔などを合わせたり、色彩画を合わせたものもあり、生命力と荘厳さを兼ね備えた作品となっている。

鹿港には、萬能錫芸館のように工芸家が自ら運営し、個人の作品を展示する施設が少なくない。陳志昇さんによると、かつて多くの人が彼らの作品を見たいと求めてきたため、自宅の一部に展覧会場を開いたところ、こうした形を多くの人が模倣するようになったそうだ。

清の光緒3年(1877年)創業、鹿港を代表する老舗の「玉珍齋」。中山路と民族路の交差点にある。

工芸のウィンドーショッピング

鹿港では、通りを歩いているだけで素晴らしい工芸作品を見ることができる。かつてデンマークの芸術家、ピーター・ニイボルグ氏が「あなたの作る灯籠はまさに世界で最も美しいものです」と称えた、国宝級の灯籠師、呉敦厚さんの灯籠も見られるのである。

呉敦厚さんはすでに世を去ったが、その五男である呉怡徳さんが小さな店を守っている。「これは祖先から伝わってきた家業ですから、絶対に残さなければなりません」と呉怡徳さんは当然のように言う。彼が日々、竹を割って灯籠の形を組み、紙を貼って絵を入れていくのも家業を守るためだ。日本の中曽根康弘元首相やイギリスのエリザベス二世、レディー・ガガといった著名人もその作品をコレクションしている。

続いて、日本統治時代の官舎を改造した桂花巷芸術村へ行くと、ここには獅子舞の獅子頭を専門に制作する獅公館工坊がある。工芸師の施竣雄さんと、息子の施智翔さんが一心に獅子頭に色を付けている。

話を聞いてみると、こう説明してくれた。中国の中原地方にライオンはいないが、華人は昔から獅子を吉祥の神獣と考えており、そこからさまざまな造形が生まれていった。獅子頭の造形は、武術のアクロバティックな動きに呼応しているため、廟や武術館、集落などによって、さまざまな流派の特色があるという。

彼らは注文を受けて特注品を作るだけではなく、施竣雄さん自身、獅子頭のコレクターでもある。獅公館を訪れた観光客は、「盒子獅」とも呼ばれる「客家獅」や、「閉口獅」との異名を持つ「閩南獅」、それに「醒獅」など、さまざまな獅子頭を見ることができる。

このように、鹿港には先人が残した文化がさまざまな痕跡を残している。ヘミングウェイは「パリは移動祝祭日」と言ったが、もし彼が鹿港を訪れたなら、次々と目に飛び込んでくる伝統工芸のショーウィンドウを見て、「一日では見尽くせない文化の宴」と形容するのではないだろうか。

鹿港の書家・呉肇勲さん。

信泉家具店の製品。ヒノキに手彫りの彫刻を施した椅子は、明代のデザインを模したもので、流れるようなラインに彫刻が映える。

鹿港の工芸の特色は、職人が伝統工芸から芸術創作へと歩みを進めている点にある。写真は萬能錫芸館に展示されている作品。工芸家は祭祀用の伝統の錫器(右)を制作するだけでなく、個性的な芸術作品(左)の創作にも取り組んでいる。

施教鏞さんの捏麺(小麦粉や米粉を練った生地で作る工芸品)作品。日常の題材にユーモラスな表現が加わり、交趾陶という陶器のような繊細さと華やかさを感じさせる。

捏麺師の施教鏞さん。

「怡古齋」が生み出した麺茶氷(甘く炒った小麦粉をのせたかき氷)は今では鹿港の名物となっている。

施教鏞さんの捏麺(小麦粉や米粉を練った生地で作る工芸品)作品。日常の題材にユーモラスな表現が加わり、交趾陶という陶器のような繊細さと華やかさを感じさせる。

灯籠工芸師の呉怡徳さん。

獅子頭工芸師の施竣雄さん、施智翔さん親子。