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台湾をめぐる

のんびり鉄旅

のんびり鉄旅

——南廻線の風景

文・鄧慧純  写真・林格立 翻訳・松本 幸子

3月 2021

屏東の内獅村を通る列車。(古庭維撮影)

台東大武郷の加津林渓下流で列車が通り過ぎるのを待つ。太平洋を背景に列車がまるで海を走るような風景が見られるからだ。或いは多良駅で列車を待てば、青い列車、海、空が一色となる風景を撮影できる。

昨年(2020年)、鉄道ファンたちは屏東-台東間の南廻線に足繁く通った。南廻線が全線電化される寸前に、電柱や電線のない鉄道の風景や、青い車体の普快車(普通車)が走る最後の姿を記念に留めようとしたのだ。

1991年開通の南廻線は、台湾を一周する鉄道で最後に開通した区間だ。台湾をぐるりと一周する鉄道を、旅行作家の劉克襄が「大型回転寿司」とたとえたことがある。今年(2021年)はちょうど開通30周年に当たり、それに先駆けて台湾鉄路管理局では南廻線の全線電化工事を完成させた。つまり、より速く台湾の最南端を往復できるようになったのである。だが南廻線は、電化や速度といった交通機能に意味があるだけではない。そこには多くの物語や風景が隠れており、「異なる台湾が見える」路線なのだ。

昨年末に南廻線が全線電化する前、多くの人が廃止になるディーゼルの青い普快車(藍皮車)に乗ろうと詰め掛け、枋寮駅に長い行列ができた。

困難を極めた工事

「南廻線は、ナイキのスウッシュ(ナイキのロゴの線)のような形です」と、ドキュメンタリー映画『南廻鉄道員』を撮影中の蕭菊貞監督は形容する。屏東の枋寮を出発し、橋やトンネルを越えて約100キロ、台東駅が終点だ。

台湾の主な鉄道路線は日本統治時代に作られ、第二次世界大戦までに大部分が完成していたが、残っていたのが、北廻線(蘇澳-花蓮)と南廻線(枋寮-台東)の2区間だった。北廻線が1980年に開通したのに対し、南廻線は最も遅く1991年の完成だった。また北廻線が2003年に全線電化した後、2020年に南廻線が電化され、台湾の鉄道は新たな時代を迎えた。

実は、日本統治時代に屏東-台東間を横断する路線の計画が持ち上がっていたが、地質が複雑で変化が多いため、工事の難度が極めて高かった。蕭菊貞も「この区間の80%がトンネルか高架橋だということからも、工事の難度がわかります」と言う。また特にふれたいこととして、当時、北廻線の工事では日本から顧問を招いたのに対し、南廻線はすべて台湾の土木技師によって作られたことを挙げる。彼女は昔の資料を探したり、計画や工事に加わった技師を訪ねたりして、当時の工事の難しさを知った。南廻線は枋山を過ぎた後はほぼ前人未踏の地で、そこに達する道がなかった。調査や測量から始めなければならないが、資材や食料の運搬も難しく、しかも枋野の辺りは強い山風が吹き下ろす。中央山脈を貫くのでトンネルは36にも上り、工期は11年に及んだ。工事の苦労やその成果は、台湾建設史に記録されるべき出来事だと言えよう。

多くの鉄道ファンに見送られた台鉄R100型ディーゼル機関車。スピードは出ないが、スローな旅を楽しませてくれた。

最高の景色

工事の難しさが特徴というだけでなく、南廻線は風景がとりわけ美しい。

列車が枋寮駅を出ると、辺りは養殖業の要地で、沿線のあちこちに養魚場が見える。また枋寮は愛文マンゴーの産地でもあり、3~4月には枋山辺りまで延々とマンゴーの開花が見られる。5~6月にはそれらの実った風景が広がり、これは蕭菊貞監督にとって数年間の撮影で最も記憶に残った景色だという。さらに南へ進むと山と海に挟まれた枋山駅に着く。ここは台湾鉄路最南端の駅で、美しい落日の見える展望台が有名だ。

枋山駅で台湾海峡と別れを告げ、東側の中央山脈へと進む。ここからは沿線に人家もなく、見えるのは渓谷や山、そして河川敷に作られた西瓜栽培の作業小屋ぐらいだ。強い山風が吹くので農作には向かない地で、樹木は黄色みを帯び、少々荒涼とした風景だ。熱心な鉄道ファンで、旧打狗駅故事館館長でもある古庭維は、道のないような山でも苦労して登って行くのが好きだ。そしてそこから眼下を見下ろし、列車が河川敷を走る様子、或いはトンネルから出てきた姿を撮影する。山々に囲まれたその立体的な風景は、台湾のほかではあまり見ることのできないものだ。

南廻線で最長の中央トンネルを抜けた後、古荘駅からは窓外に太平洋が広がる。遠くには黒潮の流れも見え、幾層にもなった海の青が心を癒してくれる。列車が瀧渓駅を過ぎると乗客がそわそわと右側の車窓の外を見始めた。劉克襄が「10分の1秒の美しさの駅」と形容した多良駅が近づいているのだ。現在では停車しない多良駅は、斜面の高架上に作られており、窓一面に広がる太平洋の風景が一瞬だけ楽しめる。その後、康楽駅を過ぎると、窓外の風景は黄金色の稲田となり、木に実る果物も南国風にバンレイシ(釈迦頭)に変わる。こうして終点の台東へと至る。

山あり海あり、自然や文化も楽しめる。南廻線では豊かな台湾風景のフルコースが味わえ、忘れられない列車の旅となる。

古庭維は、台湾ではなかなか見られない四方を山に囲まれた立体的な空間で、列車がトンネルに入っていく情景を撮影するのが好きだ。写真の列車が渡っているのは枋野二号橋。(古庭維提供)

記憶とともにある普快車

「藍皮車(青い車体の普快車の別称)」は南廻線のもう一つの目玉だ。

南廻線の電化後、台湾鉄路局はディーゼルエンジンとディーゼル機関車の使用率を下げ、藍皮車の廃止を発表したため、消えゆく姿を一目見ようとブームが起こった。「3671」と「3672」という呼称は鉄道マニアの間だけで使われていたが、2020年には巷で一気に有名になった。毎日午前11時28分枋寮発3671列車と、午後4時15分台東発3672列車に乗ろうという人がどっと増えたのだ。青かオレンジのディーゼル機関車に引かれた青い車体の普快車がホームに入ってくると、人々は一斉にカメラのシャッターを押した。

藍皮車はすべて車齢が50年以上で、エアコンもなく、天井には旧式の扇風機がある。窓も上に押し上げるタイプで、ずっしり重いので落ちてきた窓に手を挟まれないよう気を付ける。トイレも処理液を流す旧式のタイプで、薬剤のにおいが鼻につく。またディーゼル車が牽引しているので、煙が車窓から入ってきて、1日乗っていると体に煙のにおいが染みついてしまうし、走行中の音もけたたましい。古庭維は事実として「藍皮車が姿を消すのは、もはや時代のニーズに合わないからです」と指摘する。

だが、藍皮車の廃止が報道されると世間は騒然となり、定期運行の継続を求めるネット署名活動も広まった。長年「スローな旅」の良さを訴えてきた劉克襄は、それより早い2011年に藍皮車の存続を嘆願し、幾度もメディアに投書していた。藍皮車のある風景を残すことは、そのレトロさを求めるだけでなく、「スローな旅ができる列車が必要だと思う」からだと言う。

劉克襄はスローなペースを大切にし、鉄道ファンは失われつつある風景を惜しむ。そして1950~60年代生まれにとって藍皮車は幼い頃からの記憶に結びつくものだ。だから廃止が近づくと多くの親たちは、かつて毎日通学で乗った列車を子供にも体験させようとした。自家用車など多くなかった時代、列車は大切な庶民の足であり、列車に乗って故郷を離れ、またそれに乗って故郷に戻るなど、数々の思い出とともにある。

1950〜60年代生まれの人々が最後の青い普快車に乗りに来た。彼らの成長の過程で、都会へ出る時、また故郷へ帰る時、この列車が大切な足だったのである。

列車のある記憶

「40歳以上の台湾人なら、進学や兵役、仕事で故郷を離れる際の記憶にたいてい列車があるはずです」と蕭菊貞は言う。

『紅葉伝奇』『銀簪子』などのドキュメンタリーを撮った蕭菊貞は、この3年余りカメラを列車に向けてきた。当初は台湾を1周する鉄道の物語を追うことで台湾を語るつもりだった。「台湾の古い町の多くは鉄道と駅から発展していきました。この点はまだよく語られていません」だがそれでは構想が大き過ぎた。友人のアドバイスで対象を絞り、「変化のさなかにある南廻線」を撮ることにしたのだ。

蕭菊貞は清華大学で台湾映画について講義もしているが、いわゆる台湾ニューシネマの中で、常に「民衆の共通の記憶」を追っているのが侯孝賢だと言う。彼の『悲情城市』『川の流れにくさは青々』『恋恋風塵』には、いずれも鉄道が登場する。「台湾のかつての庶民の暮らしにおいて、列車はとても重要な役割を果たしていたと感じます」と蕭菊貞は言う。

列車が各地をつなげ、列車で台湾をぐるりと回れる。「でもその一方で我々は、この小さい台湾のそれぞれの場所を、その場所の物語を、よく知っているとは限りません」と蕭菊貞は指摘する。ドキュメンタリー監督として台湾の各地のことはよく知っているつもりだった。だが南廻線の撮影を通し、沿線の原住民集落や、50年代に大陳島から移住して来た人々のことなど、同地については知らないことが多いと実感した。

撮影中、トンネル工事の技師が語った言葉が忘れられない。「(中央トンネルは)たった8キロ余りの長さですが、工事には8年を費やしました。今では数分であっという間に通り過ぎるので、当時の我々のことに思いを馳せる人などいないでしょう」と。

だから記録に残すのだ。さらに多くの物語を掘り起こし、物語を伝えていかなければならない。「物語があれば、つながりが生まれます。今の私が南廻線とつながったように」と蕭菊貞は感慨深げに語る。

「先生、次に南廻線で中央トンネルを通る時は、決して寝たりせず注意して見ます」と言ってくれる学生もいる。「トンネルの中は真っ暗なのに、何を見るつもりなのでしょう」と蕭菊貞はおどける。だが、土地の物語を知れば、土地の風景につながりが生まれる。ほんの小さな1歩でも人と土地の距離を縮めることは可能なのだ。

青い普快車に冷房はなく、天井の旧式扇風機が回転しながら風を送ってくれる。

ゆっくり進んで楽しむ風景

南廻線の電化で、花蓮や台東と高雄の行き来がしやすくなり、運輸量も高まる。だが交通機関は常に競い合うものだ。古庭維はこう言う。「かつて台湾鉄路は西部高速道路の開通後、長距離輸送での優位性を失い、東部海岸の北廻線と南廻線だけで競争力を保っていましたが、それも今は蘇花公路と南廻公路が新たに整備開通し、まったく新たな時代を迎えています。東部海岸は通勤通学人口が少ないので、観光が南廻線の今後の収入源となるはずです」

それなら南廻線は、人々が鉄道旅行を知って楽しむ良い契機となるだろう。「スローな旅」を掲げる劉克襄も「スローな旅というのは速度の遅さが大切なのではなく、速度を落として異なる台湾を見ようということです。それらの特別な風景はスローなペースでしか見えませんから」と言う。

劉克襄は若い頃より南廻線をよく知っていた。彼は南廻線を3区間に分け、それぞれ「台湾海峡区間」「大武山区間」「太平洋区間」と名前もつけている。博物館学的な視点で旅する彼は、大武駅を訪れるとウンピョウの故郷について語り、枋山から台東までの旅は、パイワン族の地なので台湾の中の異国のようだと言う。また金崙駅に行けば駅前に止まった数台の小型トラックで野菜や果物を売るのに出くわす。これらはまさにスローな旅のおもしろさだろう。

確かに南廻線の電化は時間短縮や効率化につながったが、鉄道は単なる輸送ルートではない。劉克襄もこう言う。台湾鉄道は「異なる台湾を見せてくれるルート」なのだと。

作家の劉克襄は「スローな旅」を提唱し、普快車を残すことを嘆願してきた。重要なのは速度の遅さではなく、ゆっくりと旅することで普段とは違う台湾の風景を楽しんでほしいからだ。