
集集大山の山脈に囲まれた車埕駅は、台湾では唯一海に面していない南投県にある。台湾鉄路集集支線の終着駅で、「最後の駅」とも呼ばれてきた。しかし、この駅は人里離れた秘境にあるわけではない。駅の周辺では昔は製糖業や林業などが盛んで、発電所もあり、交通の重要な中継地点とされてきた。近年、この町は観光業の発展に積極的に取り組み、地域のストーリーを語ることで、再び輝きを取り戻している。
台北から高速鉄道(新幹線)に乗って台中烏日駅まで行き、台湾鉄路に乗り換えて縦貫線の二水駅へ、さらに集集支線に乗り換えて、ようやく目的地の「車埕」に到着する。列車を降りると、目の前には松柏崙山がそびえ、貯木池が静かに緑の水をたたえている。環湖歩道を歩くと、ラクウショウの葉の間から陽光が降り注ぎ、木造の日本式家屋が落ち着いたたたずまいを見せる。まるで風景画の中にいるような心地よさが旅の疲れを癒してくれる。多くの旅人がはるばるこの小さな町を訪れる理由もここにあるのだろう。

産業とともに発展
「車埕」という地名の文字を解釈すると、車を止める広場という意味がある。日本統治時代、当局は台湾の天然資源の開発に取り組んだ。中でもサトウキビを原料とする製糖業は重要な輸出項目で、埔里製糖工場の製品を輸出するために、埔里から車埕を経て二水まで、縦貫線とつながる軽便軌道が敷かれた。車埕周辺の地形は緩やかで開けているため、軽便トロッコの中継駅となり、百台ものトロッコがここに停められていたこともある。ここから台湾語で「車埕」と呼ばれるようになった。
日本政府による台湾開発の次の重点は軽工業で、そのための電力供給が不可欠となった。そこで当局は日月潭での水力発電を計画し、車埕から遠くない門牌潭に日月潭の最初の発電所(後に大観発電所と改名)を建設した。建設のために大型の重機や発電機を内陸に運ぶため、1919年から、二水から車埕を経て大観までを結ぶ軽便軌道の幅が広げられ、正式の鉄道となった。これが後の集集支線の雛形である。
発電所が完成すると、それまで電力会社に所属していた鉄道は鉄路局の管轄に移り、営業路線となった。これによって一般の運輸が始まり、内陸の埔里に暮らしていた人々も外部と行き来できるようになり、車埕が砂糖や米、貨物などの集散地となった。こうして車埕は、交通の要地となったのである。

かつて原木を天吊りした設備が今も残っている。これは車埕の人々の共通の記憶の一部なのである。
伐採の時代
車埕の地元企業である「振昌木業」の三代目で、車埕のショッピングエリア「林班道」商圏のディレクターを務める孫嘉璐さんに、近代の車埕における林業の盛衰をうかがった。
孫嘉璐さんの祖父、振昌木業を創業した孫海さんは雲林県口湖の出身で、若い頃から阿里山へ働きに出ており、後に嘉義で木材防腐処理の工場を始めた。1958年、林務局の巒大林区管理処に属する丹大林区第八林班の伐採権を落札し、そこから山林伐採に携わることとなる。
「当時、祖父は地の利を考えました。山から切り出した木材を車埕から列車で運び出せるというので、ここに土地を買って製材所を設立したのです」と孫嘉璐さんは言う。当時は、台湾が林業資源で外貨を稼いでいた時代だったが、山林の伐採で利益を上げるのは容易ではなかった。40代後半の孫さんは、年配者から聞いた話や古い写真から当時の様子を描き出す。「原木を運搬するトラックのドアはすべて取り外されていました。乗り降りの便のために外したのではなく、本当に事故があった時に、すぐに跳び下りれるように外してあったのです」と言う。
振昌木業は初めは木材の防腐加工を主とし、電信柱や鉄道の枕木を生産して輸出していた。後に製材加工も行なって近隣諸国へ輸出し始めた。中でも有名なのは、日本の明治神宮の大鳥居で、今も明治神宮を訪れると、鳥居の木は台湾の丹大林区から切り出されたものだと記されている。

車埕は製糖業や林業の発展、発電所建設などの要因で、交通の要衝となった。
台湾大地震後に春が到来
この小さな町は林業で繁栄し、かつては水里と車埕の人口の6割近くが振昌木業の関係で生計を立てていた。
しかし1985年になると台湾の林業政策が変わる。自然林の伐採が禁止され、孫家は南洋やアフリカから輸入した木材の加工に方向転換した。こうして車埕は優位性を失い、林業が衰退して人々は町を離れ、人口が激減した。
1999年9月21日の台湾大地震がこの小さな町の転換期となる。台湾中部が震災で大きな傷を負い、政府は中央が管轄する日月潭国家風景区管理処を設置し、日月潭に近い車埕もその管轄エリアに入ったのである。
孫家は一部の土地(木業展示館と貯木池のエリア)を国家風景区管理処に売り、現地で林班道ショッピングエリアの運営を始める。DIY体験工場を設け、祖父・孫海さんが好きだった東坡肉(豚の角煮)をメインとした木桶入りの弁当の販売を開始し、これが地元の名物となった。以前は木材を購入する人しか訪れなかった車埕だが、中央政府の協力もあり、集集線沿線の車埕は観光地としての知名度を上げ、当局と民間が協力して新たな繁栄へ向かい始めたのである。

車埕の古い町並みは長くはないが、どこからともなく木の香りが漂ってくる。
本業の足跡をたどる
孫嘉璐さんは私たちを連れて、昔の木材加工の動線を案内してくれた。「昔は丸太を運んできた後、まず貯木池に浮かべ、そこからお客さんが選びました」と言う。池の傍らにある木造家屋が昔の「資材課」だ。その話によると、お客は池に浮かんだ丸太に乗って足で転がしながら木の状態を確認したので、ずいぶん時間がかかったそうだ。「以前は、お客様を資材課の建物に案内してお茶を出して休んでもらっていましたが、その空間は今は『隠茶Steam』という湖畔のレストランになっていて、南投県特産のお茶を観光客に出しています」と言う。
「隠茶Steam」の窓は大きく、日月潭管理処が整備した絵のような環湖歩道と生態池を眺め、四季折々の美しい景色を楽しめる場として、SNS映えするスポットとなっている。
現在の「木業展示館」はかつての振昌木業の製材所だった建物だが、長年放置されていたため倒壊の危険があった。そこで日月潭管理処が著名建築家・郭中瑞氏が率いる中冶環境造形顧問公司に修復を依頼し、現在は車埕の産業再建にとって重要な場となっている。「彼らは2年をかけて製材所の構造を調査し、過去の技法を使って再建しました」と言う。古い製材所の木の構造の上に新たな構造を加え、新旧の木材が重なり合うようになっている。さらに古い木材を再利用することで、観光客は半世紀前の建材と歴史の変化を目の当たりにすることができる。

古い写真から、山林の伐採が盛んだった時代がよみがえる。原木は蒸気機関車で運び、険峻な丹大林道を通らなければならなかった。(振昌興業股份有限公司提供)
すべてを再利用
孫嘉璐さんは「林班道」商圏のコリドールを歩きながら、至る所にある看板や鉄板を指差し、これらも昔の工場の鉄スクラップを再利用したものだと説明する。昔の人は物を大切にした。木材乾燥室の窯にも、古い機関車の使われなくなったものを再利用した。
続いて訪れたのは、昔の「副産係」だ。ここでは当時、林業の副産物である精油や成形炭を生産していて、現在はDIYの体験工場となっている。孫嘉璐さんによると、祖父は大変な倹約家で資源を非常に大切にし、1本の原木を100%活用しなければ気が済まなかったという。例えば、木材の切り方には2種類あるのだが、木目に沿う形で切る縦挽きにすると歩留まりが高く、廃材は少ない。しかし以前の台湾では日本の大工の伝統を受け継ぎ、木目に直角に切る横挽きが用いられていた。この方法だと木材の変形は少ないが、廃材がやや多く出てしまう。廃材を捨てるのは惜しいと考えた祖父は、パルプ工場と協力して製紙を試みたが、ヒノキ材は油分が多すぎた。そこで人気のあるエッセンシャルオイルを作ることを思いつき、高級品に生まれ変わらせたのである。「私たちは早くからこのヒノキ精油を化粧品の原料として日本に輸出していました」と言う。
こうして精油を取った後の廃材はさらに成形炭に加工された。当時、多くの大学の森林学科が車埕に見学に訪れた。この小さな町が生きた産業博物館であるからだが、もう一つの見どころは、振昌木業がいかに木材を最大限に利用しているかという点にあったのである。
これら当時の林業にまつわるあれこれについて、孫嘉璐さんは積極的に年配の親族から話を聞き、記録してきた。年配者の中には、そんな細々したことは重要ではないと言う人もいるが、孫嘉璐さんはそうは思わない。「現在では、山林伐採の歴史はマイナス評価されがちですが、これもすべて歴史の一部分です。私は、台湾の歴史を明らかにし、多くの人に知ってもらいたいのです」と言う。

古い写真から、山林の伐採が盛んだった時代がよみがえる。原木は蒸気機関車で運び、険峻な丹大林道を通らなければならなかった。(振昌興業股份有限公司提供)
華麗なる変身――林班道の革新
車埕のショッピングエリア「林班道」のマーケティングディレクターでもある孫嘉璐さんは、しばしば「林さん」と呼ばれてしまうので、訂正するとともに林業の話をするようにしている。「『林班』というのは林地の区画の単位なのです」と説明する。子供の頃から、家族が「林班、林班」というのを耳にしていたことから、祖父を記念してこの言葉を使うことにした。「道」には新たな道を歩みだすという意味が込められている。
2008年にアメリカで音楽を学んで卒業したばかりだった孫嘉璐さんに、父親は帰省してやってみないかと聞いてきた。「当初、父は私に土産店を一軒だけやらせるつもりでした」と言う。完全に門外漢の彼女は、このショッピングエリアの運営に乗り出し、土産物の開発を研究したところ、台湾の多くの観光地の商品には、その土地らしい特色がないことに気付いた。そこで彼女はショッピングエリアに出店する店に対して、「地元の特色を持つ商品を扱い、営業時間を定めてそれに従うこと」という条件を出した。それから十数年、林班道はすでに軌道に乗っている。2022年には修復された車埕小学校の空間を買い取り、「林班道鉄路小学校」を設け、ここを芸術文化のプラットフォームにすることにした。展覧会を開いたり、アーティスト・イン・レジデンス事業を行なったりする場である。「車埕にはさまざまな人が訪れるので、この場所で芸術家の作品に触れてもらうことができます」と言う。
車埕の町に足を踏み入れると、林班道小学校とLouisaコーヒーが共同で海外から招いたアーティストMar2inaのグラフィティアート「夢の中のウサギ」が目に入る。屋外の巨大な絵画は、人気の撮影スポットとなっている。学校のホールに置かれたストリートピアノは彼女の母親の嫁入り道具で、誰でも自由に演奏できる。各教室は展覧会場として利用でき、ある教室ではベアブリックたちが音楽の授業を受けていた!
5年後、10年後に目標を定めると、車埕はアートの町になり、そこから未来が開けてくるかもしれない。「いつの日か、車埕は日本の直島(日本の瀬戸内海にある「現代アートの聖地」とされる島)のように、多くの人がわざわざ訪れるようになるかもしれません」と、孫嘉璐さんは期待に胸をふくらませる。

孫嘉璐さんは、車埕を、人々がどんなに遠くからでも訪れたいと思う町にしたいと考えている。

「振昌木業」創業90周年記念展。林業に関するさまざまな資料が展示され、旅人も車埕の歴史を振り返ることができる。

「振昌木業」創業90周年記念展。林業に関するさまざまな資料が展示され、旅人も車埕の歴史を振り返ることができる。

貯木池の傍らに建つかつての資材課のオフィスが、現在は湖畔のレストラン「隠茶Steam」となった。お茶を飲みながら山間の町の静けさにひたることができる。

孫海さんの好物だった東坡肉(豚の角煮)をメインにした木桶入りの弁当が車埕の名物となった。

木業展示館には、丸太から木材を切り出すかつての作業場が残されている。

林班道商圏のロゴマーク。緑は山林を表し、オレンジ色はかつて機具のさび止めに塗った塗料の赤を表している。

かつて木材乾燥室の窯だったスペースも展示空間になり、林業の資料が展示されている。


新鋭アーティストMar2inaに依頼したグラフィティアート「夢の中のウサギ」は車埕で人気の撮影スポットになっている。

廃校になった車埕小学校の校舎が、今では芸術文化の交流の場「林班道鉄道小学校」に生まれ変わった。

林班道鉄道小学校の教室ではベアブリックが授業を受けている。