Home

台湾をめぐる

鹿港 時が止まったままの

鹿港 時が止まったままの

閩南芸術の宝の街

文・蘇俐穎  写真・林旻萱 翻訳・山口 雪菜

5月 2025

泉安龍山寺から分霊してきた鹿港龍山寺。剪粘(陶器を切って貼り合わせた装飾)、彫刻、絵画、藻井(飾り天井)など、装飾工芸の集大成と言え、いたるところに素晴らしい職人技を見ることができる。

かつて台湾で最も栄えた「一府(台南)二鹿(鹿港)三艋舺(万華)」の一つに数えられる彰化県の鹿港は、清の時代に大いに繁栄した歴史ある街で、ここで暮らす人々は強い意志をもって時代の流れに抗ってきた。先人たちは運河の利便性を活かし、商人の知恵を発揮して一時代の繁栄を築き上げた。そして今日も、この町は江南の水の都やベネチアのように当時の面影を残している。

春節が明けた後も、鹿港の町には正月らしい雰囲気が残っていて、レンガ造りの家々は赤い灯籠を掲げ、門には真新しい春聯が貼られている。

鹿港では春節になると家々に真新しい春聯が貼られる。春聯の多くはオリジナルの手書きで、店名や屋号の文字が組み込まれている。

細部に残る家の記憶

鹿港の根底を成す基礎は、こうした何気ないディテールに感じられる。この土地の文化や歴史を30年にわたって研究してきた陳仕賢さんによると、真新しい赤い紙に書かれた春聯の多くは、一般に量産され市販されている商品ではなく、家主が自ら筆を執って書いたか、地元の書家に依頼したもので、その最初の文字には家主の名前や屋号が用いられている。

例えば鹿港の老街(古い通り)にある老舗茶屋「怡古齋」の春聯は、左右に「『怡』神養性請来品嘗茶点」「『古』芸伝薪可堪称謂大師」とあり、上には横に「老街曲巷気象維新」と書かれている。百年の歴史を持つ線香店「施美玉」の春聯には、「『美』香献瑞迎春福」「『玉』舗満堂喜気臨」、上には「美満乾坤如璧玉」と書かれている。

中山路にある丁家の邸宅(丁家大宅)は、鹿港に来た観光客が必ず訪れる重要な観光スポットで、教養のある大富豪の家らしい雰囲気を味わうことができる。

陳仕賢さんによると、鹿港は清の時代に河川を利用した貿易港として栄え始め、移住者が増えていった。商売に成功して豊かになった福建省泉州出身の商人たちは文化と教育を重視し始め、その子孫は功名を追求し、少なからぬ商家が学者の一族へと変わっていった。清朝が台湾を統治していた213年の間に、台湾からは進士(科挙の合格者)が33人誕生しており「そのうち4人が鹿港の出身でした」と陳仕賢さんは言う。かつて丁家の大邸宅の家主だった丁寿泉もそのうちの一人だったのである。

「進士」というのは科挙の最高等級の試験合格者のことでで、ここから考えると鹿港には相当数の秀才(国子監の入試である院試の合格者。科挙の受験資格を持つ)や挙人(科挙の第一関門である郷試の合格者)がいて、学問が盛んだったことがうかがえる。そのため「字・墨・算」つまり、作詩、書画、計算や記帳に関わる業種に従事する人が多かった。

鹿港では春節になると家々に真新しい春聯が貼られる。春聯の多くはオリジナルの手書きで、店名や屋号の文字が組み込まれている。

進士の雅な暮らし

中華民俗芸術基金会の董事長で、彰化師範大学副学長で国文学科教授でもある林明徳さんは、長年にわたって「彰化学」を研究してきた。その話によると、以前地元の人に案内されて鹿港のある泉州式長屋を訪れた時、外観は普通の民家だが、中に入ると、文字の書かれた匾額や繊細な彫刻、立派な木の梁などがあり、驚嘆したことがあるそうだ。「これは三世代以上続いた富豪の家に違いありません」と言う。

一般の人は個人の家に入ることはできないが、早くから県の古跡に指定され、一般公開されている丁家の邸宅でも、鹿港の名門一族の家の風格に触れることができる。「進士第」とも呼ばれてきた丁家の邸宅の幅は3戸で15メートル、奥行きは75メートルで面積は310坪もある。内部は「三坎(道に面した間口は3つ分)両進(建物の奥行きの区分は2つ)両院(中庭は2つ)」という構造になっている。

鹿港には、このように奥行きのある建物が多い。陳仕賢さんによると、200年余り前、建物の梁には福州杉を輸入して使っていたが、当時の船の大きさの関係で建物の横幅は5メートルまでしか建てられなかった。しかし限度がなかった奥行きは70~80メートルに達することも多かったのである。当時は、家屋の道路に面した部分は店舗にすることが多く、奥は倉庫や住居として使用していた。

現在は居住者のいない丁家の邸宅は、1999年の台湾大地震で損傷を受けて修復されたが、現在も構造部分からは、100年以上前の上流階級のこだわりが見て取れる。丁家大宅のガイドボランティアは、特に何ヶ所かを案内してくれた。敷居は家の仕来りと格式の高さを象徴し、壁の屏風には左は書、右には画が入れてある。床のレンガの並べ方にも意味があり、レンガの向きによって公私の領域が分けられている。女性の部屋にはレンガが四角く並べてあり「止まれ」を意味する。客間には菱形に並べてあり「入れ」を意味する。

このほかに、階段の段数や神壇や窓格子の数は、風水の「陽宅」のルール通り奇数になっている。一階は「一歩登天」、三階は「歩歩高升」を意味する。窓の形にも意味がある。丸窓は「円満・財富」を意味し、八角形の窓は「八卦・平安」、巻物の形の窓は「知識人の家柄」を意味する。また窓に竹の装飾が施されているのは「竹報平安、中空有節、節節高昇」といったおめでたい意味を持つ。

だが、人々を感嘆させる鹿港の文化は、これら建築物の意匠だけではない。神卓に供えられた祖先の位牌は線香の煙に燻されており、名家が代々の祖先を大切にしていることがうかがえる。丁家の邸宅が一般の人々に無料で開放されているのも、丁家の一員で鹿港文開小学校校長の丁禎祥さんの尽力によるもので、鹿港の人々が自身の歴史を誇りとしていることがうかがえる。

鹿港の歴史文化を研究する鹿水草堂の陳仕賢さん。

古跡に栄枯盛衰を見る

学者の研究によると、鹿港はもとの地名を「鹿仔港」と言い、その由来には二つの説がある。一つは、昔この地で活動していた平埔族のバブザ族がここを「Rokau-an」と呼んでいて、その発音に漢字を当てて「鹿仔港」になったというもの。もう一つは、かつて台湾中部にはタイワンジカが多く生息しており、河口の草地でよく見られたことから、この地名がつけられたというものだ。

鹿港の発展は1784年までさかのぼることができる。陳仕賢さんが自ら福建省の泉州蚶江を訪ねて調べたところ、当地には現在も「対渡碑」が残っており、石碑には1784年に正式に鹿港と泉州を往来する埠頭が開かれたとあり、鹿港の繁栄の歴史を記している。

歴史文献によると、清の乾隆50年から道光30年(1785-1850年)が鹿港が最も繁栄した時期であった。街には商家が林立し、商船が集まり、その隆盛は台南府に次ぐ勢いで、「鹿港飛帆」が清代の「彰化八景」の一つに数えられている。

しかし、こうした盛況がずっと続くわけではない。港には次第に土砂がたまっていって船の航行が困難になり、それによって貿易は急速に衰退した。さらに日本統治時代になると、南北を貫く鉄道が敷かれたが、それが鹿港を通らなかったため、鹿港は衰退の運命を免れることができなかったのである。

それでも、名家の出身で頭の回転が速い鹿港の人々は、黙ってそこに留まることはなかった。鹿港を離れた人々は、ビジネス界や政界、医学界、芸術文化界などで大きな実績を上げてきた。広く知られているところでは、台湾五大家族の一つに挙げられる辜家や、文壇で「施家三姉妹」と呼ばれる施淑女、施叔青、李昴(施叔瑞)、Acerグループ(宏碁)創設者の施振栄、味全食品創業者の黄烈火、帝宝工業(DEPO)董事長の許叙銘などが挙げられる。

丁家大宅では、階段の段数や床のレンガの貼り方、窓の造形などからも、文化へのこだわりが見て取れる。

閩南芸術の活きた化石

しかし別の面から見ると、発展が停滞したことによって、鹿港では思いがけず文化遺産が保存されることとなった。

その昔、移住者たちの暮らしが豊かになると、彼らは故郷の生活様式を再現したいと考え、福建省泉州から優れた腕を持つ職人を何人も招いた。そして少なからぬ職人がこの地に根を下ろし、弟子をとって百年以上にわたって技能を伝承し、弟子たちも独立して技を広めていった。

「それに鹿港の人々は保守的で、昔からの家業や伝統を守りたいと考えてきました」と林明徳さんは言う。彼は彰化県と協力して鹿港の工芸の種類を調査したことがある。すると、木工、仏像制作、竹・籐、金属、紙細工、刺繍などの伝統工芸の数や種類において、いずれも鹿港が彰化県で最も多いことがわかった。しかも代表性と特殊性があるため、これらは「鹿港工芸」と呼ばれるに値するのである。

そしてこれらの工芸の多くは祭祀や風習、信仰などと関わっており、現在でも廟や民家、集落などで目にすることができる。

鹿港老街(古い町並み)と呼ばれる埔頭街、瑶林街、大有街の一帯を歩くと、かつて「前は通り、後ろは河」と言われ、船が行き交い、船着き場が並んでいた風景が目に浮かんでくる。曲がりくねった赤レンガ敷きの道を行けば、当時から残る半辺井(塀際の半円形の井戸)や甕牆(甕を並べた塀)、石敢当(魔除けの石。道の突き当りなどにある)、九曲巷(曲がりくねった路地)、隘門(路地にある小さな門)など、ユニークな景観が連なる。当時、厦郊(福建省泉州同安県からの移住者による商業組合)傘下にあった企業が建てた十宜楼や意楼などの船頭行(現在で言う海運会社や代理商)が今も残っている。そのうちの意楼は、彰化県福興郷(鹿港の隣町)出身で台中で俊美食品を興した李俊徳が20年前に買い取り、自ら資金を出して傷んだ建物を美しく修復したという話も伝わっている。

古い町並みから少し外れた中山路は、清の嘉慶年間(1796-1820年)に町が飽和状態に達したために新たに整備された道路で、当時は「鹿港大街」と呼ばれた。この道の長さは1キロほどで、雨や日差しを避けるために当時は木造で長い屋根が設けられており、「不見天街(空の見えない通り)」とも呼ばれた。日本統治時代に入ると、都市計画のためにこの屋根は取り壊されたが、これによって建物の美しい外観が見えるようになった。丁家の邸宅や老舗菓子店の「玉珍齋」などは、この通りにある。

鹿港の町の範囲は決して広いとは言えない。代表的なエリアで言うと、龍山寺から天后宮までは1キロほど、さらに最も早くから開発された北頭漁村まででも3キロほどに過ぎない。東西の幅は500メートルほどである。面積は台南ほど広くはないが、さまざまな観光スポットや商店は、この徒歩圏内に集中している。

この歴史ある小さな町を、林明徳さんは貴重な「閩南芸術の活きた化石」と呼び、台湾が世界に誇る文化エリアなのだと言う。天の時、地の利、人の和が相まって昔ながらの華やいだ景観を今日まで残している。そこを歩けば百年の時空が一瞬で見渡せるのである。

今も祖先を祀る丁家の邸宅。祖先を敬い、家族の繁栄を大切にしていることがうかがえる。

丁家大宅では、階段の段数や床のレンガの貼り方、窓の造形などからも、文化へのこだわりが見て取れる。

丁家大宅では、階段の段数や床のレンガの貼り方、窓の造形などからも、文化へのこだわりが見て取れる。

参拝客が途絶えることのない鹿港天后宮。

鹿港の工芸の多くは祭祀や信仰と関わっており、今も人々の暮らしに根付いているため「閩南芸術の活きた化石」とも呼ばれる。(写真は鹿港龍山寺の八卦藻井)

広いとは言えない鹿港の町を歩くと、廟の反り返った棟や、曲がりくねった九曲巷、通り沿いの隘門(路地にある小さな門)、甕牆(甕を並べた塀)、半辺井(半円形の井戸)など、伝統的な閩南集落の特色が次々と目に入る。

広いとは言えない鹿港の町を歩くと、廟の反り返った棟や、曲がりくねった九曲巷、通り沿いの隘門(路地にある小さな門)、甕牆(甕を並べた塀)、半辺井(半円形の井戸)など、伝統的な閩南集落の特色が次々と目に入る。

広いとは言えない鹿港の町を歩くと、廟の反り返った棟や、曲がりくねった九曲巷、通り沿いの隘門(路地にある小さな門)、甕牆(甕を並べた塀)、半辺井(半円形の井戸)など、伝統的な閩南集落の特色が次々と目に入る。

広いとは言えない鹿港の町を歩くと、廟の反り返った棟や、曲がりくねった九曲巷、通り沿いの隘門(路地にある小さな門)、甕牆(甕を並べた塀)、半辺井(半円形の井戸)など、伝統的な閩南集落の特色が次々と目に入る。

広いとは言えない鹿港の町を歩くと、廟の反り返った棟や、曲がりくねった九曲巷、通り沿いの隘門(路地にある小さな門)、甕牆(甕を並べた塀)、半辺井(半円形の井戸)など、伝統的な閩南集落の特色が次々と目に入る。