銅鑼や太鼓を打ち鳴らし
「幼い頃、曾祖父がいつも背もたれ付きの椅子を携え、廟埕で催される芝居を見に私を連れて行ってくれたものです」と言うのは、歌仔戯(台湾オペラ)劇団とプロダクション「漾澄製作」の創立者である王博睿だ。廟埕にまつわる彼の思い出は尽きない。
彼にとって廟埕は、友達との待ち合わせ場所であり、何より歌仔戯を見に行く場所だ。
神の生誕祝いや祝日には、廟が劇団を招いて神に捧げる芝居を催す。正殿に向かい合う位置に舞台が組まれ、きらびやかな装いの役者たちが観客の心を揺さぶる芝居を繰り広げる。それとは対照的に、狭い舞台裏では衣装ケースの数々が並べられ、暗い照明の下で注意深く顔に化粧を施す役者たちの姿がある。そんな光景が、幼い頃よく舞台下にこっそり忍び込んでいた彼の脳裏に、今でも深く刻まれている。
彼がビジネスを捨てて演劇の道に進むきっかけとなったのは、兵役に就いていた年に友人に誘われて媽祖巡礼に加わった際、家族から「自分の町にも媽祖巡礼があるのに、なぜわざわざ他所のを見に行くの?」と言われたことだった。
その一言でふと考えた。幼い頃から地元周辺で見慣れた「十八庄迎媽祖(台中市の18地区が媽祖を迎える祭典)」や彰化市南瑤宮による巡礼なども同様に歴史があるのに、なぜ知名度が低いのだろうと。
そこで王博睿は都会での仕事を辞めて故郷に戻り、自分の故郷や媽祖信仰について多くの人に知ってもらおうと、媽祖に関する歌仔戯を作ることにした。お年寄りへの聞き取りなど、3年余りに及ぶ地元での調査を経た後、ついに2020年、彼が立ち上げたプロダクション「漾澄製作」は、最初の作品『林黙娘掛帥二部曲――笨港進香(媽祖采配二部曲――北港巡礼)』を発表した。
この物語は、台湾中部の名家「霧峰林家」の5代目だった林文明が処刑された事件を題材とし、当時の彰化南瑤宮媽祖巡礼の様子も描かれた。しかも舞台上での劇ではなく、南瑤宮の中庭で演じる360度のパノラマ舞台という演出がなされた。最も初期の頃の歌仔戯は観衆が周りを囲んで同じ高さで見るものだったが、これはそんな昔の形式への回帰だったとも言えた。
だがこの演出には当初、廟側から変更の要求があったと王博睿は明かす。「神への奉納である以上、神と向き合う位置で演じないと神に見せるという目的が達せられない」という理由だった。
そこで廟側との意思疎通が丁寧に進められた。演出の意図をよく説明し、これが決して神の怒りを買うものではないことを確認し、実現となったのである。
「演出家は、正殿を神聖な場として明確に分けました。神を演じる役者は正殿で、ほかの人間の役はその手前の廟埕(中庭)で演技するよう区別したのです」と王博睿は言う。こうすることで正殿や廟埕との間に対話が生まれ、観客も目を見張る劇となった。
劇中、南瑤宮の媽祖が観音亭(現在の開化寺)に監禁されて楊家の少女を救えなかったというエピソードが描かれ、媽祖の役を演じる俳優が、遠くに置かれた媽祖像を見つめる場面があった。これは観客の視線と重なるもので、また異なる味わいを加えた。
さらに王博睿は霧峰林家の末裔と連絡を取り、初演の前に、南瑤宮の媽祖像が林家を訪れるよう手配した。約150年前の未解決事件の無念を少しでも晴らしてもらえるようにという意図だった。「盛大にオペラを演じてそれで終わりというのではなく、なぜこの物語をやったのか皆に知ってほしかったのです。林家とどんなつながりがあるのか、そして歴史を明らかにするほかに何ができるのかということを」
こうすることで、自分たちは歌仔戯の伝統の継承者となることができ、そして林家の末裔も、遅ればせながら媽祖を迎え、霧峰の林家の物語をより完全なものにすることができたはずだ、と彼は説明する。
公演の夜、南瑤宮の廟埕はかつての賑わいを取り戻し、信徒たちの心も再び一つになった。くしくも林家の董事長である林俊明は、当初、王博睿にこう語っていた。「この公演を見た人が心を打たれ、笨港(北港)に巡礼して林家の邸宅も参観するようになれば、成功の第一歩となりますね」